それぞれの見方で 映画「草原の椅子」ネタバレなし感想+ネタバレレビュー
個人的お気に入り度:7/10
一言感想:台詞はクサいけど、いい映画
あらすじ
サラリーマンの遠間(佐藤浩市)は50歳を過ぎてから、取引先のカメラ店の社長・富樫(西村雅彦)、骨董店オーナーの貴志子(吉瀬美智子)と出会い、友情を深めていた。
そんな時、遠間はひょんなことから幼い少年・圭輔を預かることになる。
圭輔は母親から虐待を受けて、心に深い傷を負っていた・・・
「八日目の蝉」「聯合艦隊司令長官 山本五十六」の成島出監督最新作です。
原作は宮本輝による小説です。
![]() | 宮本 輝 630円 powered by yasuikamo |
この物語は、作者の宮本輝さんが1995年に発生した阪神・淡路大震災で家を失ったことをきっかけとした、旅の体験から執筆されたそうです。
その旅はシルクロードを6700キロ、40日間に及ぶという困難なものでした。
自分は原作は未読でしたが、映画は過酷な体験をした宮本輝さんの価値観と、優しさがあらわれた作品であったと思います。
映画本編にはまったく関係のない不満をまず漏らしますが、この映画は宣伝がよくないと思います。
同監督の大ヒット作である「八日目の蝉」とは対照的にほとんど宣伝を見かけませんし、その内容も疑問が多いのです。
宣伝で大きくアピールされていることには「パキスタンのフンザで日本初の長期ロケを行った」ということがありますが、それは個人的にはあまり魅力を感じることではありませんでした。
映画を観るとカザフスタンの描写は確かに重要な意味を持つことがわかるのですが、それはマクガフィンにすぎません。
本作でそれよりも重要なのは「50歳になる、ちょっと疲れた大人の人間ドラマ」だと思います。
そこをもう少しアピールしてもよかったのではないでしょうか。
それは個人的な価値観によるものなのでまだよいのですが・・・予告編の出来は客観的に観てもキツいものがありました。
→『草原の椅子』予告編 - YouTube
とりあえずテロップが表示されるとともに「チラリ~ン♫」という音をかぶせるのはやめてほしいです。



うん、すごくダサい。
映画を観る前にこの予告編を観ていたら、自分は観なかっただろうな、と思います。
そんなやる気のない宣伝はともかく、本編はとてもいい映画です。
本作はバツイチで50歳のシングルファーザーのもとに、突如4歳の男の子があらわれ、ときに子育てに悩み、ときに恋にときめき、ときに友情の大切さを知るという、「中高年応援ムービー」です。
そして「仕事に悩む」人たちがたくさん登場します。
その悩みの実態や、作中で登場人物が言う「どうしようもならないこと」はきっと同世代の方の共感を呼ぶでしょう。
登場人物の描写がとても丁寧で、かつユーモアも忘れず、人間ドラマとして上手くまとめ上げられていたのでかなりの満足感がありました。
山田洋次監督作が好きな方には、きっと楽しめると思います。
難点もあります。
そのひとつがとにかく説明っぽく、クサい台詞が多いことです。
成島出さんが脚本を担当した「脳男」でも思ったのですが、日常生活ではまず言うことのないであろう濃ゆい台詞が大量に投下されると、どうしても映画としての魅力を削いでしまうように思えるのです。
もうひとつは上映時間が2時間19分と長いことです。
原作の上下巻にもなる長い物語をうまくまとめられてはいたのですが、終盤のパキスタンの描写はかなり冗長に思えます。
これもまた、成島出さんの監督作品である「八日目の蝉」と同じ不満点でした。
そう考えると、上映時間の長さを気にせずに楽しめ、かつ自然な台詞ばかり(お嬢様の台詞除く)だった「横道世之介」はすごい映画であると再認識しました。
不満点のほうを多く上げてしまいましたが、十分すぎるほどにおすすめできる良い日本映画です。
作品のテーマはお年を召すほどに染み入るでしょう。
役者も総じて魅力的で、特に小池栄子さんは色んな意味ですさまじい役を演じています。
悪く言えば映画から完全に浮いているのですが、よく言えば穏やかな映画の雰囲気の中での刺激として機能しています。ファンなら必見ですよ。
以下、ネタバレです 結末に触れているので鑑賞後にお読みください↓
~最低の母親(小池栄子)の描写~
自分の子どもである圭輔を虐待していた母親はすごいインパクトでした。<すっぴん(化粧をしていない)状態です。
遠間の会社に来て「ひどい母親でした」と言うも、「もうあんなことはしません、圭輔との絆はたったひとつなんです。震災で流された子どもたちの代わりに生きようと思うんです」などとズレたことも口にします。
遠間家に彼女が来たとき、圭輔は叫び、怯えました。
母親は「事情が変わりました、あの子は育てるのは難しいです」「あんなに大きくなっているから、もう私がいなくても大丈夫ですね」とほざきました。
さらには「震災、震災って洗脳されていたんです」「風疹にかかったってなんで言わないの!私のお腹の中にいる子どもを殺す気?人殺し!」とほざきました。うん、殴りたい。
序盤で、遠間はテレビの馬鹿な番組(イジリー岡田司会)を観て、「この国はバカばっかりだな」とオヤジくさいことを言っていました。
遠間は、クズ母親には「あんたたちみたいなのがいるからこの国はおかしくなっちまったんだ、いや、国なんかどうでもいい。震災はテレビドラマじゃない、現実に起こったことだ!震災の子どもに目を向ける前に、なんで自分の子どもを気にかけてやらないんだ!」と猛反撃しました。
このシーンでは、今の日本の現状だけでなく、「個人」に警鐘を鳴らしています。
そこにあるのは、「国がおかしい」「悲しい天災があった」と言う前に、個人(母親)がそばにいる人(子)へ愛情を注ぐべきであるという、マザー・テレサのことばのようなメッセージでしょう。
はじめはまともに見えた父親も、後には無理やり圭輔を連れてきて「甘えぐせがついてしまったようです、あなたたちにも責任があるんですよ」と押し付け、あまつさえ「新しい仕事で寮に入るから圭輔は育てられない」「僕もまた神の子なんです」「僕の新しい門出を応援してくれないんですか?」とほざくクズ親でした。
これを演じた中村靖日さんは、「運命じゃない人」だとすごく優しいキャラだったのに・・・
消化器で窓を割ろうとする遠間に「よしいいぞ、やったれ」と思いました。
~遠間~
遠間はバツイチで、大学生になる娘がいます。
彼は実は浮気をしていて、娘に打ち明けますが、とっくに娘も元妻もそのことを知っていました。
彼は「間違ったこと」を続けていました。
そんな遠間にとって、冨樫・貴志子・圭輔の存在はとても大きいものであったでしょう。
一人娘が「大学をやめて圭輔を育てる」と言った時に遠間はこう言います。
「お前がそんなことをする必要はない。お前の人生はこれからだ。結婚して、生まれてきた子どもを大切にしろ。お前は俺の娘だ、たったひとりの家族なんだ」と・・・
遠間は圭輔に、施設に行ってもらうことを言います。
それは遠間がたびたび言ってきたように「どうしようもならないこと」だったのでしょう。
仕方がないけれど、すごく悲しく思えました。
~貴志子~
彼女は遠間と同じくバツイチで、不妊症であったために姑から否定をされ続けて生きていました。
貴志子と遠間が惹かれあったのは、そうした内に秘めた過去に似たものがあったからなのかもしれません。
彼女はパキスタンの旅路の途中、「圭輔の母親になってもいいですか」と聞きます。
「子はかすがい」と言いますが、圭輔が彼らの人生をつなぎとめる存在となったのが、すごく嬉しかったです。
~富樫~
富樫は不倫相手から灯油をぶっかけられたことをきっかけに、遠間と「親友」になります。
冨樫は「人情がないもんは、正義じゃおまへん」と言ってしましたが・・・そのことばと矛盾した事実を、冨樫はつきつけられることになります。
彼はカメラ店の苦しい状況から、社員をリストラし、そのために41歳の男が自殺をしたのです。
富樫は自殺した男の息子に止められて葬式の焼香もあげられず、「人殺しのくせしてのう・・・」と自分を責めます。
彼のこの無念は、最後にフンザに住む老人に「正しいことを繰り返しなさい」ということばで、ほんの少しは晴れ、「東京の商売から離れる」ことを決心させたのでしょう。
~中央線~
矢野顕子による劇中歌「中央線」が素晴らしかったです。
遠間・貴志子・富樫が「どうしようもないこと」に直面したとき、この曲がラジオから流れます。
映画を観たあとに、是非その歌詞に想いを馳せてみてください。
~フザンで教えられたこと~
遠間・貴志子・富樫・圭輔の一行は、遠間の知り合いのカメラマンのおかげで知った「瞳の中の星を見てくれるおじいさん」に会いにいくため、パキスタンのフンザに旅立ちます。
おじいさんは、圭輔に「この子は星から産まれた子どもだ。瞳に映る星はあまりに多すぎて、私には数え切れない」と言います。
貴志子もおじいさんに瞳の星を見てもらうことを望んでいましたが、おじいさんが立ち去ろうとすると、貴志子は「もういいの」と言います。
おじいさんは「正しいことを繰り返しなさい」とも言いました。
遠間・富樫・貴志子は、それぞれが自分の生き方に自身がありませんでした。
おじいさんのこのことばは、3者の希望になったのでしょう。
圭輔はひどい親から生まれましたが、おじいさんは「星から生まれた」「無数の星が見える」と教えてくれました。
それもまた、希望に満ちた教えであったと思います。
~草原の椅子~
富樫はカメラ店に「草原の椅子」の写真を飾っていました。
その椅子は左右の構造が違い、身体障害者の方でも快適に座れるように工夫されたものでした。
写真では広い草原に椅子があったように見えましたが、実際は富樫の実家の小さい草むらで撮られたものでした。
富樫は実家でこう言います。
「こんな小さい草っぱらでも、広い草原に感じる。人の生き方を表しているようや。今撮ったのは誰々の人生っていうようにな。それぞれの心に草原があるんやねえ」
この草原の椅子が示しているのは、この映画の登場人物の生き方そのものです。
半身不随になってしまった遠間の部下・堂本は、生き方を変え、カメラ店で親切な店員として働くことができました。
リストラされたために自殺した富樫の部下や、勝手な考えで子どもを虐待した上に簡単に捨ててしまう親は、そうした草原の椅子を見つけることができなかった人なのでしょう。
最後にパキスタンで見つけた椅子で、富樫は遠間と貴志子の写真を撮ります。
富樫は「幸せの気配があったよ」「どこに行っても同じ景色が見える」と言います。
遠間が富樫に「未来を信じてもいいのかな」と言うと、富樫は「信じていくしかないさ」と答えました。
富樫には、たとえ広い草原で撮られたものでなくとも、椅子に座っていた2人の姿が未来への希望に溢れているように見えたのです。
見方を変えれば、人それぞれの草原の椅子が、きっとあるはずです。