血のつながりと、愛した時間 映画「そして父になる」ネタバレなし感想+ネタバレレビュー

個人的お気に入り度:8/10
一言感想:細かい描写にハッとする「家族」のドラマ
あらすじ
野々宮良多(福山雅治)は優秀な学歴や仕事、家庭を自分の力で勝ち取ってきた人間だった。
しかし良多は6年間育ててきた息子の慶多の優しすぎる性格を不満にも思っていた。
そしてある日、良多は慶太が病院内で他人の子どもと取り違えられていたことを知る。
妻のみどり(尾野真千子)とともに、取り違えの相手である両親の斎木雄大(リリー・フランキー)とゆかり(真木よう子)と面会する良多だったが・・・
「誰も知らない」「奇跡」の是枝裕和監督最新作です。
是枝監督の魅力といえば淡々とした描写の中にある豊かな人間描写、そして自然な台詞の数々です。
監督(脚本も担当)は「人は日常会話ではそれほど多くのことをしゃべらない」という考えのもと、台本に2行を超える台詞を書く事はほとんどないそうです。
しかし、その短いことばの端々には、そのことば以上のたくさんの情報を感じられるでしょう。
それは役者の卓越した演技、そして抑えた感情表現のたまものです。
人によっては、登場人物が感情を爆発させるシーンがほとんどないことが不満に思うかもしれません。
しかし自分はこのことこそが大好きです。
ほんの少しの感情の「ゆらぎ」「変化」を丹念に描写していると思えたからです。
なんともリアルに感じてしました。
誰もが認める超イケメン福山雅治を主役に迎えていますが、演技力があまりないと思う方もいるでしょう。
「気難しく、子どもとあまり接しない」というガリレオの主人公とあまり変わっていないキャラクターですし、抑え目な感情表現は演技が上手くないという印象を強いものにしていると思います。
でも自分は結構ハマリ役に思えました。淡々とした物言いが「仕事ばかりで子どもと遊ばない」父親像に合致していると思えたからです。
リリー・フランキー、尾野真千子、真木よう子というベテラン勢はさすがの一言、そして子役たちの演技も素晴らしいです。
監督は子役に台本を渡さずにその場その場で台詞を言わせているそうなので、ある意味演技をしていないとも言えます。
おかげで子どもたちの台詞は自然そのもの。本当の家族のやり取りを見ているようで、とても楽しく、ときには切なくなりました。
また、故人である夏八木勲も出演しており、本作は夏八木さんの遺作のひとつにもなっています。
本作の物語は「6年間子どもが取り違えられていた」ことからはじまる家族の軋轢です。
物語の制作にあたっては、ノンフィクション本の「ねじれた絆―赤ちゃん取り違え事件の十七年」を参考にしているそうです。
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両親にとって苦しみとして大きくのしかかってくるのは、6年間という歳月です。
6年間も育てていれば、当然その子どもに愛着を感じています。
相手のところに返してどうなるのか?子どもはどう思うのか?どうするのが最善の策なのか?
それを主人公、その妻、そして相手の両親も考え、行動するようになります。
そして導かれる選択に、子を持つ親はきっと思うところがあるでしょう。
映画で描かれる2つの家族は対照的です。
一方は裕福ではないけれど家族の距離が近い暖かい家庭、一方は都会のマンションに住むエリートだけど家族の距離が遠い家庭です。
その描写は極端ではありますが、多くの方が「自分はこっちの家庭に似ているなあ」にも感情移入しやすいと思います。ここも映画の長所です。
ゴールドベルク変奏曲の使い方も抜群に上手く、映画の雰囲気にマッチしていました。
難点はやはり(良いところの裏返しでもありますが)淡々としていて起伏に乏しいことでしょうか。
家族の描写を細やかに描いている作品ではあるのですが、展開のヤマやタニを気にする人にはやや不満に思うところがあるかもしれません。
カンヌ国際映画祭では10分間にわたるスタンディングオベーションで迎え入れられた本作ですが、「大感動」「号泣」といったイメージではありません。
ほんの少しの感動が積み重なっていく、とても丁寧で優しい映画という印象でした。
是枝監督のファンは必見です。
単純な娯楽でない、心に染み入る映画を観たい方にも大プッシュでおすすめします。
また福山雅治がイケメンすぎて気に入らない方にもおすすめします。
なにせこの映画の福山雅治は「ずっと勝っている奴は負けているやつの気持ちなんてわかんねえんだな!」と言われたり、ひどい目にあったりするのです。非イケメンor非リア充は納得するかもしれません(ヒドいシメ)
以下、結末も含めてネタバレです 鑑賞後にご覧ください↓
*テーマに沿って書いているので、時系列は前後しています。ご了承ください。
~野々宮良多~
福山雅治演じる良多は、子どもには厳しく、仕事を優先する人間であり、妥協はしない、厳格な男です。
「1日休めば取り戻すのに3日かかる」と言ったり、
お風呂は子どもと一緒に入らなかったり、
琉晴の箸の持ち方を正したり、ストローを噛むくせも「ルール」を掲げ矯正しようします。
良多はステレオタイプな価値観を持つ男だと思います。
良多は慶多の優しすぎる性格をみて「今の時代、優しいだけじゃ生き残れないからな」と『今』の時代を反映したようなもの言いをしていますが、友人の弁護士に「血のつながり」のことを言うと「意外と古臭いんだな、お前」と言われます。
自分の意思を強引に押し通す人間でもあります。
妻のみどり(尾野真千子)には「なに上から目線で言われてるんだよ、これから戦うかもしれないんだぞ」と・・・これは「お前のほうがな」ですよね。
そして上司の意見をそのままに、「(慶多と琉晴の)2人とも譲っていただけませんか」と言う良多・・・
斎木雄大(リリー・フランキー)は、「本気で言っているのか?」と言い、良多を軽くたたき、「勝っているやつは人の気持ちなんてわからねえんだな」、「(お金は払うということに対して)金で買えるもんと買えへんもんがあるねん」と不愉快に思います。
慶多はそんな雄大のことを、義理の母(樹木希林)に「どんな人?」と聞かれて「電気屋だった」と答えます。
ただ一言、それだけなのです。
慶多の社会的地位や経済力で相手を推し量り、相手の人となりを見ていないいやらしさがにじみ出ていました。
斎木ゆかり(真木よう子)は良多に「似てるとか似てないとか、そんなことにこだわっているのは、子どもとつながってるって実感のない男だけよ」と諭します。
さらに後に琉生が知らない人にくっついて改札をくぐり斎木夫婦の家に「帰った」ときに、良多はゆかりに「私たちは2人とも引き取ってもいいですからね」と、自分の言ったことをそっくりそのまま返されるのです。
良多は自分のピアノの演奏の腕前を省みず、他の子どものピアノの演奏に「上手だね」と言う慶多に、「うまくなる気がないんなら続けても意味がない」と怒ります。
みどりはこのことに「みんながあなたみたいに努力できるわけじゃないの、頑張りたいのに、頑張れない人もいるのよ」「きっと慶多は私に似たのね」と返します。
みどりは良多への不快感をさらに募らせていきます。
そしてみどりは、「取り違えたことがわかった日」の良多のある一言を言います。
「あなたはこう言ったのよ、『やっぱりそういうことか』って」
みどりは「あなたは慶多が優秀じゃないのが信じられなかったのよ」とも続けます。
良多は子どもに対してはちゃんと笑顔で接していました。
子どもに対する厳しさも含めて、決して悪いところばかりではありません。
しかし良多は、「血のつながり」でしか自分の子どもであることを享受できませんでした。
だから、負けても悔しがらない息子が、実は取り違えられたと知って「やっぱり」と言ってしまうのです。
みどりは、がんばれない慶多に「きっと私に似たのね」と言ったのに・・・
良多は少しずつ、血のつながりがある琉晴と、血のつながっていない慶多の両方の「父」になっていきます。
~良多と琉晴~
ゆっくりとお互いの子どもを「宿泊」させていき、そして6月―
良多は琉晴に自身を「パパ」と呼ぶように言います。
琉晴は「パパちゃうよ」とツッコミを入れます。
良多はじゃあこうしよう、「むこうはパパとママ、こっちはお父さんとお母さんと呼ぶんだ」と言います。
琉晴は「なんでなん?」と訊きます。
良多は「なんでもだ」と答えます。
琉晴はさらに「なんでもなのは、なんでなん」と返します。
良多は「なんでだろうな」と、少し笑いながら言いました。
琉晴は壊れたおもちゃを良多のところに持っていきます。
斎木雄大は電気店の店主で、慶多も「すごいよ、なんでも直しちゃうんだ」と言うくらいにおもちゃを直すことがうまかったので、それを良多にも期待したのです。
はじめは「これはだめだ、新しいものを買ってもらいなさい」とぶっきらぼうに言う良多でしたが、すぐになんとか直そうとします。
琉晴は、一時的に斎木夫婦の家に「帰って」しまいます。
そのあと、良多はみどりに「俺も子どものころに家出したんだ、母に会いたくて・・・」と告白します。
そして良多が書斎にいるとき、母と楽しそうに遊んでいる琉晴の声が聞こえてきます。
「次はお父さんの番」と―
良多はドアが開くのを待ち構え、ギターを銃にみたてて琉晴を撃ちます。
琉晴は持ち前のギャグ「オーマイガッ」と言って倒れます。
良多、みどり、琉晴は部屋の中でテントを張り、そしてプラネタリウムを見ます。
琉晴は願い事として「パパとママのところに帰れますように」とお願いし、その後すぐに「ごめんなさい」と謝ります。
これに良多は「もういいんだ」と応えました。
みどりはこのことに「慶多に申し訳ないわ、慶多もいまごろそう思っているのかって」と、涙を浮かべながらつぶやきました。
良多は、ピアノを弾けずにうるさく鳴らすだけの琉晴を不愉快に思っていました。
斎木夫婦のところに琉晴が帰った時には「なんで叱らないんですか」と、子どもを叱りつけることを重んじるような物言いをしていました。
琉晴が斎木夫婦の絵を「パパ」「ママ」の文字とともに描いたときには、「なんでこんな絵を書いたんだ、お母さん泣いていたぞ」と責めていました。
しかし、最後には斎木夫婦のところに帰りたいと言う琉晴に「もういいんだ」と許すのです。
そして琉晴も良多のことを「お父さん」と呼んでくれたのです。
愛した時間が少ないけれど、血のつながりがある良多と琉晴は、ここで「親子」になったのだと思います。
~良多と慶多~
良多は、慶多がどちらの親にもあげていた「紙で作ったバラの花」を無くしてしまったようです。
その茎の部分はソファーの近くにありました。
これはひょっとすると、慶多が自ら(良多が大切にしなかったので)破いてしまったのかもしれません。
良多は慶多に自身のカメラをあげようとしていましたが、慶多は「いらない」と返しました。
しかし後に良多がカメラの画像を確認すると―そこには良多が眠っている姿を撮った写真がありました。
それを見て、良多は涙を浮かべます。撮ってくれたのは、慶多でした。
良多は斎木夫婦のところに、慶多に会いに行きます。
しかし慶多は、良多を見るやいなや外に飛び出てしまいます。
良多と慶多は、二つの歩道を挟んで歩きながら話します。
慶多は「パパなんか、パパじゃない」と言います。
*以下のご意見をいただきました
「パパなんか、パパじゃない」というのは、良多が「慶多が大人になるためのミッション」と言って、慶多を騙して斎木家へ行かせたことを怒っており、またこのことで、やはり心のどこかで、理由は分からずとも、慶多は自分が良多に見捨てられた、という寂しい感情を持っている事を表している言葉に思えました。
(また他のご意見では父親らしい雄大と生活したことで、良多が父親らしくないことに気付いたのではないか、とありました)
良多はこう言います。
「6年間は、パパだったんだよ。
できそこないだけど、パパだったんだ。
バラの花、無くしちゃってごめんな。
パパもピアノを途中でやめたりしたんだ。
もうミッションなんか終わりだ!」(良多は慶多を斎木夫婦の家に泊まることを「慶太が大人になるためのミッション」と言っていました)と―<自分のことを「できそこない」と言う良多。
良多は「完璧」「勝ち続けた」人生を送ってきた人間で、今まで反省をしたり、謝ったり、自分の行動を省みることはありませんでした。
しかし、ここでは自らを、父としては「できそこない」と認めるのです。
慶太は映画のはじめに、お受験で「キャンプに行った」というウソをついていました。
慶太もまた、ここで親に本音をぶつけることができたのです。
良多と慶多はやがて一つの歩道に戻ります。
血のつながりがないけど、愛した時間がある良多と慶多もまた、このときに「親子」になったのだと思います。
~斎木雄大~
斎木夫婦の住んでいるところはボロボロの街の電気屋さんで、裕福ではない家庭でした。
雄大は「慰謝料どんくらいもらえんのやろうな」と嬉しそうに言うし、さらにデパートで買ったものは病院に払ってもらうように領収書をもらったりします。なんとも現金です。ついでに財布はマジックテープ式です。
しかし、子どもとの距離は近い家庭です。
雄大はお風呂に子どもと一緒に入って遊び、デパートでも楽しそうに遊んでいました。
斎木雄大は良多にこう言います。
「お風呂も一緒に入らないんだって?『子どもは時間』だよ」と―
良多は子どもとの時間が持てないことに対して「私にしかできない仕事があるんです」と言いますが、雄大は「父親だって、取り換えのきかん仕事やろう」と言います。
雄大はいいかげんな人間のように思えましたが(実際そうだけど)、「父親」ということに対しては確かな信念を持っていたのです。
~斎木ゆかり~
ゆかりもまた気丈な女性でした。
ゆかりは中盤に「このまま、何もなかったことにできませんかね」と言います。
良多が「慶多はますます斎木さんに似てきます、それでも愛せますか」と言ったときには、「愛せますよ、もちろん」と返します。
これは血のつながりでしか親子であることを享受できなかった良多と対照的でした。
でもいいところばかりでなく、良多が「怪我をさせといてすみませんの一言もないってどういうことだ?」と行った時は「うんうん」と頷いてしまいました。
似た夫婦なのでしょうね。
~野々宮みどり~
みどりは子どもが入れ替わっていたことで、登場人物の中でいちばん苦しんでしたように思えました。
みどりが慶多と一緒に電車に乗って「このままどっかに行っちゃおうか」と言ったとき、慶多は「パパは?」と返しました。
みどりはそこで、どうしても「父」が必要なことがわかったのでしょう。
しかし、2つの家族で川に出かけたときには「慶多も弟が欲しいって言っていたの、私は産めない体になったのだけど・・・こんな形でもきょうだいができて、嬉しかったんだと思う」と、はじめて「よかったと思えること」を口にします。
そんなみどりを、ゆかりはそっと抱き寄せました。
みどりが、ほんの少しでも救われた瞬間でした。
~看護師~
なぜ子どもの取り違えが起きたのか―
それは看護師がわざと入れ替えたためでした。
「自分はみじめな生活をしているのに、良多が一流企業に勤めていて幸せそうだった」、ただそんな理由だったのです。
看護師は「そのときは、胸がスッとしました」とまで言うのです。
さらに未成年者略奪罪は5年で時効となるために、看護師は刑務所に入る必要がないのです。
ゆかりとみどりは「時効だと知って今言ったのよ!」などと怒りをあらわにします。
その後、良多は看護師から(弁護士を経由して)「お金」を渡されます。
良多はその「誠意」を返しに行きます。
そこで看護婦の息子(連れ子)が現れ、良多に睨みをきかせます。
良多は「お前には関係ない」と言いますが、看護師の息子は「関係ある、僕のお母さんだもん」と返します。
良多は子どもの肩をポンと叩き、去りました。
母親がどんなことをしても、その子どもは母親を守る―
その姿に、良多も思うところがあったのでしょう。
*以下の意見もいただきました
わざと入れ替えたのも当時は連れ子とうまく行ってなかったからという告白があったように思います。血は繋がっていなくても「僕のお母さん」と母親を守る姿に良多も思うところがあったんでしょうね。これも父になるまでの積み重ねの一つだと思います。
*もうひとつの意見もどうぞ
> 良多は一瞬、その子を憎らしく感じたでしょうが、しかし同時に、自分がさらに孤立していることを哀しく思ったのではないかと思います。
> 慶多は自分の子ではなく、琉晴は懐かない。みどりは自分を見限り、斎木家と親しくなる。この時点ですでに孤立している良多は、その原因を作った看護師にさえ、「親子関係の絆」のようなものを見せ付けられ、寂しくなったのではないでしょうか。
そもそも、看護師が誠意と称してお金を渡したことは、良多が「2人とも譲ってください、十分なお金は払います」と言ったことと同じようなものです。
そのことに良多は気づいていません。
ここでも、我が身を振り返らない良多の性格があらわれていたのです。
~セミの一生~
良多は林の中で、作業員に「セミは幼虫のまま16年を過ごす」ことを教えられます。
良多は「長いな」と言いますが、作業員は「長いですか?」と返します。
「血が大事」と言っていた良多ではありましたが、内心は「6年という愛した時間」を長いと感じていたことを示しているのだと思います。
~いろいろ気になったこと~
・学校の描写がない
慶多のお受験、入学式、通学路の描写はあるのですが、琉晴のほうはまったくありません。
ちょっと気になりましたが、あくまで「家族」を描くことを重視したために省いたのだと思います。
・良多の実家でも、下手なピアノの練習音が聞こえている
不快な印象を持っていた良多の父(夏八木勲)と良多が、「親子」なのだと思える演出でした。
また、良多の父は「いいか、その子はだんだんとお前に似てくるぞ」と、やはり「血」を気にしていました。
・螺旋階段
良多とみどりは、慶多が自分たちのこどもではないと判明するときに螺旋階段を登っていました。
螺旋階段は、血のつながりを意味するDNAの象徴でしょう。<DNAのような階段
名作「ガタカ」でも、似たようなイメージが使われていました。
・wiiで筋肉痛になっちゃうわよ~と言うみどりの母(樹木希林)
カワイイ。
・琉晴がゲームで遊び、そばにみどりがいるシーンでは、何度も画面が暗転する
(愛した時間がなかった分だけ)その時間が空虚なものであることをあらわしているように思えました。
・斎木夫婦の店の名前が「TSUTAYA」になっている。<某レンタルビデオ店?
たぶんはじめの3文字くらいが抜け落ちているよね。本当はなんという店名だったかは永遠の謎ですw
*コメントで雄大の乗っていたバンに「つたや商店」と書いてあるという意見をいただきました。
・TSUTAYAに訪れる謎の外人(オジエル・ノザキ)
電球を買いに来て、雄大にLED電球を勧められて、「LEDはまぶしすぎるよ~」と流暢な日本語で答えていました。なんだったんだこの人w
・良多の友人の弁護士
弁護士は、「俺は勝ってなんかいないよ」と言う良多に「なんか好きになりそうだよ」と言い、さらに「愛されたいのか?ますますおまえらしくないな」と言っていました。
これも良多の変化をあらわしています。
~家族の写真~
2つの家族は、それぞれが本格的に「血のつながり」のある家族のもとへ子どもを送る前に、川で写真を撮ります。
そのとき、慶多と琉晴は、それぞれ愛した時間が長いほうの両親のところにいました。
そのことは映画のポスターにもみてとれます。
これはお互いが「これで最期」だと、愛した時間が長い子どもを自分のところに引き寄せたかったのだと思います。
ポスターでは2つの家族の疎遠さをあらわすかのように、良多と慶多と琉晴は無表情で、ほかも微笑を浮かべているだけです。
しかし映画本編では、2つの家族は楽しそうに笑っていました。<みんな笑顔
はじめは喧嘩もして、悩み苦しんでいた2つの家族でしたが、少しずつでも打ち解けることができたのでしょう。
*以下の意見をいただきました
家族写真が笑顔になったのは、雄大が良太に「笑顔にしよう」と言ったからだと思いました。
~ラスト~
映画は2つの家族が斎木夫婦のお店に入っていくところで幕を閉じます。
このときに慶多は「スパイダーマンって、クモだって知っていた?」と良多に訊きます。
良多は「いや、はじめて知ったな」と答えました。
これは「親もまた子どもに教えられることがある」ということを端的にしめしたシーンであると思います。
さらにその知識を慶多に教えたのは、雄大でした。
ここに「2つの家族のつながり」をみることができます。
これは良多の成長物語でもあります。
そして、父になるまでの―
この映画では「大切なのは、血のつながりか、愛した時間か」という問いに答えを用意しません。
最期に示されたのは、2つの家族がともに同じ家に帰ったこと、そして「2つの家族のつながり」でした。
これから先も、野々宮家は斎木家に(ひょっとしたらその逆も)、そして子どもに会いにいくのでしょう。
その先の未来を想像させる、素晴らしいラストシーンでした。
否定的な意見↓
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ただ貧困なだけのように思えて仕方ありません。
これが年に映画1本観るか観ないかの
一般的な観客像だと言えばそれまでなんでしょうけど。。
この手の映画にハラハラドキドキを求められてもなあ。
なんか文章のロジックが福本次郎さんに似てますね。
記事の内容とあんまり関係なくてすみません。
でも、斎藤夫妻が乗っていたバンの側面に「つたや商店」と日本語表記があったので、たぶんきっと、本当に「TSUTAYA」なんだと思います。
なんでやねん!という命名ですが。。
いや〜、ラストのスパイダーマンの件のセリフ、良かったですよね〜
ultimate-ezの書かれた感想も素晴らしかったので勝手ながら引用させていただきました。
たしかにリリーフランキーの家族にはイヤな部分もありましたね。それも、「らしい」と思えました。
今は混雑しているだろうから
少し遅くなってからにしようかと迷っていたんですが
すぐに観に行こうかと思います
看護師の子どもは確か連れ子でしたよね?わざと入れ替えたのも当時は連れ子とうまく行ってなかったからという告白があったように思います。血は繋がっていなくても「僕のお母さん」と母親を守る姿に良多も思うところがあったんでしょうね。これも父になるまでの積み重ねの一つだと思います。
> 看護師の子どもは確か連れ子でしたよね?わざと入れ替えたのも当時は連れ子とうまく行ってなかったからという告白があったように思います。血は繋がっていなくても「僕のお母さん」と母親を守る姿に良多も思うところがあったんでしょうね。これも父になるまでの積み重ねの一つだと思います。
ありがとうございます。
確かに連れ子でしたね!そのとおりだと思います、追記させてください。
BGMがほとんどなくて、感情の盛り上がりを、おかしなBGMで誤魔化されずに、良かったですね。
本当に、感動の大巨編でなくて、細かなエピソードの積み上げで、ある意味肩すかしでしたが、わが身に振り返り「親になった時を思い出させる」良い映画でした。
> >良多は斎藤夫婦のところに、慶多に会いに行きます。 しかし慶多は、良多を見るやいなや外に飛び出てしまいます。
>
> 良多と慶多は、二つの歩道を挟んで歩きなが ら話します。 慶多は「パパなんか嫌いだ」と言います。
>
>
>
> この、「パパなんか嫌いだ」は、「パパなんかパパじゃない」と言ったのではないか、と思います。
>
> この言葉は良多が「慶多が大人になるためのミッション」と言って、慶多を騙して斎木家へ行かせたことを怒っており、またこのことで、やはり心のどこかで、理由は分からずとも、慶多は自分が良多に見捨てられた、という寂しい感情を持っている事を表している言葉に思えました。
> (また他のご意見では父親らしい雄大と生活したことで、良多が父親らしくないことに気付いたのではないか、とありました)
>
> このシーンは、慶多が初めて気持ちを良多に爆発させているシーンでした。それまで、良多という父が望む通りに慶多は何も逆らわず生きてきたのに。
すみません!あわてて書いたので確かにご指摘のとおり、あのときの台詞は「パパじゃない」でした。
訂正させてください。
そうですね、それでこその「ミッションなんかもう終わりだ」ですものね。
間違いの多いブログですみません。
aяisaさんのご意見も参考になりましたので、ぜひ記事に追記させてください。
ご都合が悪いようでしたら、是非ご連絡ください。該当部分を削除します。
ウィルは「ある型」に自分をはめ、それに自分自身が満足していると
”錯覚”もしくは”自己暗示”して生きていた人間と思われます。
映画ではその人物像が徐々に変化していくのを描いています。
ウィルは劇中で「○っぽ」といわれるのですが
当初の良多はいかにバックボーンがしっかりしていても
まさにそのように見えました
人は人と関わって変化していくものなんだなと改めて思いました。
ありがとうございます。
自信のない個人的感想だったので、「管理人への秘密コメント」にしました。
ですが、全く問題ありません。
お気遣い、ありがとうございます。
誤解しないで頂きたいのですが「血のつながりと、愛した時間 映画「そして父になる」このテーマは良かったのですが・・・個人的に、サザエさん的な薄っぺらい幸せ家族の定義の描写(サザエさんを否定してる訳ではありませんよ。アレはアレでファミリーコメディとして完成された作品だと思っています。念の為)が台無しにしていると思うのです。
良多を主人公にした所為もあるのでしょうけど、斎藤家を仕事よりも家族の優しいお父さんと肝っ玉母さんの貧乏幸せ家族、野々宮家をエリート勝ち組気取りパパとメンタルの弱いお嬢様ママの金持ち不幸せ家族というステレオタイプの描写にウンザリしました。
日本が好景気だった時代も早四半世紀過ぎ、こういう幸せ家族の価値観、好い加減に卒業しませんか・・・
こんなのが拍手喝采を浴びるという事はまだ日本もフランスも中流以上の金持ちが多数派なんじゃないでしょうか。
そりゃ安倍総理も失われた20年延長線宣言もしますね・・・。
> 自信のない個人的感想だったので、「管理人への秘密コメント」にしました。
>
> ですが、全く問題ありません。
>
> お気遣い、ありがとうございます。
いえいえ!あの台詞の部分は全く考察していなかったので、とても参考になったのでありがたかったのです。
勝手に使ってすみませんでした。またご意見などあればお待ちしています。
リリーの家族の方が「良い」としてるわけではなくやっぱり適当だったりだらしないところがあったり
福山は悪いように一見見えますが子供に対してはちゃんと笑顔で接してたし厳しくもあり優しさもあったと思います。(子供から尊敬もされていたし)
どっちの家族も良いところも悪いところも見せていたはずなので
バランスは取れてるんじゃないかなあと思いました。
確かにパッと見ではわかりづらいかもしれないですが。
> どっちの家族も良いところも悪いところも見せていたはずなので
> バランスは取れてるんじゃないかなあと思いました。
> 確かにパッと見ではわかりづらいかもしれないですが。
そうですよね、どちらの家族も「いい」「悪い」の両方を持っていて、それが好きな部分でもあります。
良多のことについて、少し追記します。
これに限らず、ピアノの定番エチュードが効果的に使われていました。
単にBGMとしてではなく、音場が移動しており、劇中のある場所から聴こえている…という環境音的な意味も持たせていました。
これが「隣から聴こえている進歩のないピアノ」との関係にもなっていました。
これは勝手な妄想ですが、事情を理解した10年後の慶多の ─ 或いは琉晴の ─ 演奏と解釈すると、また深い感じがします。
> 良多は少し笑いながら「なんでだろうな」と言いました
映画のテーマからは少し離れてしまいますが、「血って何だろう」と考えてみました。
恐らく子どもの取り違えは昔からあったことだろうと思います。
それはヒトになるより先史、それどころか哺乳類になる遥か遠い昔から起きていたことだろうと。
では彼らは取り違えに気付いたろうか。恐らく気付かなかったでしょう。ヒトになった以降も気付かないことはあったでしょうし、気付く気付かないに関わらず概念として存在しない(ムラぐるみで育てることが習慣)ということもあったでしょう。
そうなると、自分のルーツって何だろう…などと思いました。
ヒトは「血筋」という概念を知り、DNAという遺伝子学を手に入れた。そのことで、言葉は悪いですが、ひょっとしたらノイズのようなものを拾うようになってしまったのかもしれない。
> 琉晴も良多のことを「お父さん」と呼んでくれた
これには疑問があります。
慶多はピアノが好きなのではなく(嫌いという意味ではない)、良多に褒められるからピアノを習っていました。嫌々ながらではないとは思いますが、しかし慶多は、「ピアノが」ではなく「パパが」だったのです。
或いは琉晴もそれに同じなのではないか。だとしたら琉晴は不幸でしかない。
> 良多は子どもの肩をポンと叩き、去りました。
良多は一瞬、その子を憎らしく感じたでしょうが、しかし同時に、自分がさらに孤立していることを哀しく思ったのではないかと思います。
慶多は自分の子ではなく、琉晴は懐かない。みどりは自分を見限り、斎木家と親しくなる。この時点ですでに孤立している良多は、その原因を作った看護師にさえ、「親子関係の絆」のようなものを見せ付けられ、寂しくなったのではないでしょうか。
>
> > 良多は子どもの肩をポンと叩き、去りました。
>
> 良多は一瞬、その子を憎らしく感じたでしょうが、しかし同時に、自分がさらに孤立していることを哀しく思ったのではないかと思います。
> 慶多は自分の子ではなく、琉晴は懐かない。みどりは自分を見限り、斎木家と親しくなる。この時点ですでに孤立している良多は、その原因を作った看護師にさえ、「親子関係の絆」のようなものを見せ付けられ、寂しくなったのではないでしょうか。
確かにそうですね。
ここは「孤立」という良多の悲しみを描いている、確かにその通りだと思います。追記させてください。
>これは良多の成長物語でもあります。
この為ですね・・・。
これを描くには良多を半人前にして雄大を父の手本に描く必用はあるかもしれません。
雄大と二人を主人公にすればこうはならなかったでしょう。
ですが良多は家族に経済的に困窮しない生活を送らせたい、慶太の将来の為に充実した教育を受けさせたいとアクセル全開で頑張っていました。その為に雄大が琉晴にしていたような愛情は注げなかったかもしれません。また雄大も良多が慶多が注いでいたような愛情を琉晴に注げていなかったでしょう。
完璧な父なんて者があるなら、良多と雄大が合体したスーパーマンです。24時間の一日、一つしかない身体でそんなスーパーお父さんは不可能です。
ですが、それが作中で表現されていませんでした。子ども達は、斎木家に集まってしまっていましたし
(子どもは自分を直接かまってくれる人に懐くもので、良多のような愛情は大人になって気付くものでしょうけど)
誰もが人並み以上に頑張れば人並み以上に生活を向上させられ、人並みに頑張れば人並みの生活が送れた昭和の時代、人並み以下にも頑張らず家計に収入ももたらさない父を持っていた私には良多も最初から「立派に父」だったとしか思えないのです。
そんな良多を「出来損ないの父」とする描写が許せませんでした。
クライマックスの
>出来損ないだけど!パパだったんだよ!!
感動のシーンのはずですが、既にすっかり白けきっていた私は「出来損ないなんて言うなよ!あんた立派に親だったよ!!」と叫びたい程の怒りを感じました。
こういう事が全く気にならず、10分間にわたるスタンディングオベーションで迎え入れないと「読解力と感性が、ただ貧困」とされるのでしょうか。
カンヌ映画祭の客層は野々宮家のような生活レベルの人達でしょう。自分達と同じ野々宮家が出来そこないに思えて、斎木家が完成された家族に見えるならば、斎木家の生活を送ったらいかがでしょうと彼らに言いたいです。
私は週に一回映画を観ていますが、サービスデーしか映画館に行けない身分ですし。
本作のリメイク権をドリームワークスが取得したと聞きますが、リメイク版では斎木家に相当する家族側のお父さんとダブル主人公か、同じ中流家庭にして欲しいです。
良太の父親が、母親はどうも継母であるにもかかわらず(良太の弟らしき青年からも「(会った時くらい、たまには)母さん」って呼んでやったらどうか?と言っているシーンが有りました)、良太に「親子ってのは血の繋がりだ」と平気で口にしていたのが、私は気になりました。
人の気持ちに配慮の無い人ですよね。
良太のどうしても血の繋がりを気にしてしまう事の他、性格形成に影響してるんでしょうね。
あと、家族写真が笑顔になったのは、私は両家族の信頼とかからではなく、斎藤雄大が良太に「笑顔にしよう」と言ったからだと思いました。(私の感想です)
交換が完了したら両家の交流は無くなる予定だったので(少なくとも子供には直接会わない流れだったと思います)斎藤も最後の集合写真を笑顔にしたかったのではないでしょうか。
このブログ、参考にさせてもらってますよ!
リリー・フランキーはちょっと前に見た「凶悪」という映画にも悪役として出ていて、演技の幅広さに驚きました。裁判のシーンではピエール瀧まで出てきたんで、「凶悪」を見た人は笑ったと思います。
訂正します。
エンディングロールで表記されていましたよ。
なので実在しているのではないでしょうか。
パンフをお持ちの方は確認をお願いします。