手に入れた美と失ったもの 映画版「利休にたずねよ」ネタバレなし感想+ネタバレレビュー
個人的お気に入り度:6/10
一言感想:特殊な構成と、後半の雰囲気は賛否ありそう
あらすじ
利休(市川海老蔵)は嵐の日に切腹をしようとしていた。
「別れに嵐はつきもの」と言う利休に寄り添う妻の宗恩(中谷美紀)は「あなたは茶の一杯に精進してきたのに・・・」という無念を口をする。
物語は利休のこれまでの行動をたどり、切腹に至るまでの謎を解き明かしていく。
実在の茶人である千利休を主人公にした映画であり、直木賞を受賞した同名小説を原作とした映画です。
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本作は一見すると伝記映画のようですが、少しずつ謎を解き明かしていくミステリーの要素もあります。
その謎とは、利休という人物そのものです。
物語は利休の切腹の日からはじまり、いったん時代がさかのぼり、徐々にその切腹の日に近づいていくという構成がとられています。
つまり、切腹の日→二十一年前→十二年前→・・・・と、徐々にあらかじめ知らされている「死」へと近づいていくのです。
切腹する寸前の利休はもの静かで、感情移入の余地を許さないまでに人間味が感じられません。
なぜそのような人物になったのか?
この映画は、いくつもの「物」「ことば」を先に提示しておき、後にその「答え」を教えてくれるのです。
本作の時系列のずらし方を観て、「メメント」を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
およそ時代劇とは思えない構成は、よく言えば挑戦的、悪く言えばとっつきづらいものでしょう。
個人的には「メメント」と同等なまでに意味のある、賞賛すべき構成であると思いました。
豪華なキャストも魅力のひとつでしょう。
利休を演じた市川海老蔵は役作りにあたり茶道に勤しんでおり、清閑なたたずまいの新たな利休を見せてくれました。
「この映画は海老蔵ありき」と言いきっていいほどに、文句のない役柄でした。
また、映画「清須会議」と時代背景が被っているのも面白いです。
織田信長亡き後の利権争いをしていること、豊臣秀吉が権力を握るための算段をしていることが共通しています。
キャストも伊勢谷友介と中谷美紀が両者で出演しており、違った「顔」を見せてくれるのが嬉しかったです。
個人的なMVPだったのは、豊臣秀吉を演じた大森南朋でした。
陽気でありながらも、嫌らしさが垣間見える秀吉のキャラクターは、清須会議の大泉洋に匹敵(あるいはそれ以上)するほどにはまっていました。
難点もあります。
本作はとても落ち着いた「静」の印象が強いのですが、終盤に少しこの「静」を打ち破る展開があるのです。
この展開も大いに意味があることなのですが、どちらかと言えば「今までのいい雰囲気が壊れてしまった」とネガティブな捉え方をされやすいものであるように感じました。
「間」をとても大切にしている作品なので(茶道の所作など)、少し退屈に感じてしまうところがあるかもしれません。
展開そのものよりも、役者の演技や台詞のひとつひとつを楽しむべき映画なのでしょう。
利休にまつわるエピソードがあまり語られていないのも賛否がある点かもしれません。
有名な黄金の茶室はごくわずかにしか触れられませんし、宗恩が後妻であることや「おさん」が先妻の子であることなどは作中で示されていません。
これは作品を引き締めるために余計な描写を省いたと肯定的に捉えることもできますが、利休をよく知っている方には物足りない点であるでしょう。
また、本作の否定的な意見には利休の「凄さ」が伝わりにくいというものもあったのですが、作中にはちゃんとその力を示す描写はあります。
しかし直接的な描写ではないため、利休の魅力がわからないと感じる方が多いのもやむを得ません。
朝鮮と日本の関係において、史実とは異なる(やや日本が悪と捉えられてしまう)描きかたをされているのも、人によっては不愉快に思うところでしょう。
本作は「はっきり」登場人物の想いや考えを台詞に出すことがほとんどありません。
なぜその行動をしたのか、その行動の意味は何であるのかなど、観る人によって様々な疑問が生まれ、想像することのできる優れた映画です。
そのぶん敷居が高い作品ではありますが、単なるエンターテイメントで終わらない、奥が深い内容を求める方におすすめします。
本作のテーマにあるのは「美の追求であり」であり、探るのはその美の根源となる事実です。
利休が思う美は、肯定すべきものか、それとも理解できないことなのかー
それは、観る方それぞれが考えるべきことです。
また、タイトルは「たずねよ」とひらがなになっています。
そこには「疑問を訊く」という意味である「尋」の字、「会うためにその人のいる所に行く」という意味の「訪」の字のどちらもあてはまるのではないでしょうか。
映画を観ると、利休に(どちらの意味でも)たずねたくなってしまうかもしれません。
以下、結末も含めてネタバレです 鑑賞後にご覧ください↓
〜物語の構成〜
映画は以下の順番に進行していきます。
①利休切腹の日:嵐の日、利休とその妻・宗恩が寄り添います
②二十一年前:利休が硯箱の蓋に水を注ぐと、そこには金に輝く蝶と波と月が浮かび上がります
③十二年前:安土城にヨーロッパの宣教師がやってきます。
④十年前:利休は秀吉にひえの粥を出します。
⑤七年前:織田信長が亡くなり、秀吉にとっては柴田勝家に攻め入る好機となります。
⑥六年前:利休は黄金の茶室を献上する一方で、一畳半しかない茶室も建て、周りからその行動に疑問の声があがります。
⑦四年前:秀吉は茶会を開き、多くの人を招き入れます。
⑧切腹の年:利休の娘であるおさんが自殺します。
⑨19歳の利休(テロップなし):道楽者だったころの利休(宗易)と高麗の女の恋話が描かれます。
⑩再び利休切腹の日(テロップなし):利休が切腹し、秀吉は高らかに笑いました。
この中で⑨が最も多くの時間を裂いた重要なエピソードとして登場します。
②〜⑧まではだんだんと「現在」に近づいていったのに、突然⑨で最も過去の描写となったので驚きました。
まず、この⑨の描写から見ていきましょう。
〜死を知った利休〜
若き日の利休は女遊びばかりをしており、その道楽っぷりは父から呆れられるほどでした。
そんな彼が出会ったのは、高麗から拉致された女でした。
利休は女に一目惚れしたようで、入浴を覗いたばかりか、「世話してみるか?」と問われて「ゴクッ」とつばを飲み込みます。
・・・今までの利休のイメージが崩れまくりました(笑)
利休は朝鮮語でご飯をたべるようにと女に告げ、いざ食べてくれると「ことばが通じた!」と喜びます。
ふたりは次第に心を交わすようになり、やがて駆け落ちし、漁師が使っていた海辺の小屋へとたどり着きます。
しかし、追っ手に見つかってしまい、利休は漢字を紙に書いて「捕まるか」「死ぬか」と女に選択をさせます。
女は朝鮮語で何かを告げてから殺鼠剤を飲み、自殺をしました。
しかし、利休はどうしても殺鼠剤を飲むことができませんでした。
利休は琉球(沖縄)から来た通訳の男から、女が最後に告げたことばの意味を知ります。
それは「あなたは生きて」ということでした。
利休はこのことばを知って、むせび泣きました。
〜人を殺しても手に入れたい美〜
この後の利休が人が変わったように清閑なたたずまいになり、力を有するようになったのは、「死」を知ったからでしょう。
秀吉は利休に「お前に帝までが夢中だ、なぜだ」と訊き、利休は「茶が人を殺すのでございましょう。人を殺しても、なお手に入れたい美しさがございます」
この「人を殺す」ということは、自殺した高麗の女のことだけではないでしょう。
「人を変える」という意味を含んでいるのだと思います。
利休は秀吉にひえの粥を出して心からの涙を流させましたし、自身の茶の評判は時の権力者と渡り合えるほどの力を持っていたのですから。
茶により人が変わるということは、ヨーロッパの宣教師が来たときの「美は私が決めること、私の品に伝説が生まれます」という利休のことばにもあらわれています。
利休の作り出す「美」こそが人を支配するー
信長が「こやつ、よほどの大悪党よ」と言うのももっともです。
〜むくげの花〜
むくげとは代表的な茶花のひとつです。
高麗の女が持っていたむくげは枯れてしまいましたが、利休はその茎を切り、瓶に生けました。
ここで高麗の女は「むくげの花は一日しか咲かない、生きていることを喜んでいる」と表現します。
むくげは高麗の女が「すぐに死を迎える」ことを示したものであり、それを生けたのは「女に生きてほしい」という利休の願望のあらわれでしょう。
〜利休の人らしさ〜
利休は人が変わってしまいましたが、完全にロボットのように情のない人間になったわけではありません。
利休は、火をつけると壁に鳥が映る灯火具を宗恩に見せ、鳥を枝にとまらせて「面白い」と笑いかけました。
弟子の山上宗二が高麗茶碗をぞんざいに扱われたとき、打ち首にされないように秀吉に土下座をして懇願しました。
「人を殺しても手に入れたい美がある」と言ってはいますが、利休は何よりも美を優先しているわけではないでしょう。
利休が硯箱の蓋に水を注いで金に輝く蝶と波と月が浮かび上がったとき、信長はあふれんばかりの砂“銀”を与えましたが、利休は決して喜んではいませんでしたしね。
〜春と勘違いしたタケノコ〜
利休の子のおさんは嫁ぎ先を強制的に決められていました。
おさんは利休の茶室に来ていましたが、利休はおさんのほうを振り返ることはありませんでした。
おさんは、炭小屋で首を吊ってしまいます。
利休は、またも愛する人を自殺により失ってしまったのです。
利休は子どものころのおさんに「炭を撒いてその上にござをひいていると、タケノコが春と勘違いして出てくる」ところを見せて、おさんは「お父上はタケノコをだましたのでございますね」で笑顔で答えました。
そのころの利休は「タケノコ(=子ども)をだます」ほどにおさんに目をかけていたのですが、自殺の前にはそうではありませんでした。
利休が「美」よりも子のことを想っていれば、こうはならなかったでしょう。
〜秀吉の顛末〜
利休木像を設置した大徳寺の住職はこう言っていました。
「人の世には煩悩があります。むさぼり、怒り、愚かさです。秀吉様はむさぼりでしょう。利休どのの全てを食い尽くしてしまいます」
そのとおり、秀吉は千利休をむさぼり、滅ぼしました。
しかし、秀吉はどこかこっけいなように映りました。
多くの人が集まった茶会で「笑え!」と焚き付けた秀吉でしたが、その嘲笑はむしろ秀吉に向けられたもののように感じました。
利休が切腹したと知ったとき「天下の茶人といえども、死んだら何もできまい。地団駄を踏んで悔いておろう。嘆くがいいわ!」と大いに笑いました。
もちろん、利休があの世で悔しがっているということは、あるはずないでしょう。
なぜなら、死は利休にとってはある種のあこがれの対象であった(であろう)からです。
利休は、若き日に恋した女とともに、死ぬことができなかったのですから。
〜宗恩の想い〜
利休が切腹した後、妻・宗恩は高麗の女の指が入った入れ物を投げつけて壊そうとしましたが、すんでのところで止めました。
宗恩は利休が残した茶室に座り、障子や柱が、すべては美しいもののためにあると口にしていました。
宗恩が「最後に私がお尋ねしたかったのは・・・・」と言ったところで、映画は幕を閉じました。
この前にも、宗恩は「私の夫が茶室を建てた本当の理由は・・・・」と、その続きを言いませんでした。
その答えは、見た人それぞれが想像するものでしょう。
自分は、利休が茶室を建てたのは、ただひたすらに「美」のためだと、
宗恩が最後に尋ねたかったのは「私を本当に愛していたか」ということだったのではないか、と思いました。
利休は宗恩を妻に迎え入れたときに、宗恩は「私でよかったのでしょうか」と訊き、利休は「妻にすべきなのはそなたしかおらん」と答えていましたが、過去に想い人がいたのであれば、それが真意であったとは限りません。
利休は高麗の女の指がなかった(実際は利休が指を取って入れ物に入れていた)ことにも知らぬふりをしましたし、決して誠実で正直な人間ではないのです。
むしろ利休は、利己的なまでに美を追い求めた人間でした。
この物語は、そのために死に向かった利休の悲劇でもあるのでしょう。
本作の朝鮮の描写を批判している感想↓
「もう、異常な半島上げ作品は止めないか?」 利休にたずねよ/ユーザーレビュー - Yahoo!映画
(注:むくげは韓国の国花でもあります)
(注:本作には高麗茶碗を誉め称える描写がありますが、茶の湯の起源が朝鮮であるなどとは主張していません)
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その原因は、後半のエピソードの酷さ。
利休が目覚めるのは、何も高麗の皇女でなくとも、戦国の儚さの中からでも良かった思います。
予告編の時、吹雪の中の越前攻めに向かう軍兵の行軍シーンを見て、楽しみにして行ったのですが(関係ない話です)
重厚に始まったのに、なんだか肩すかしを食った感じでした。
朝鮮描写でおかしい偏向映画だー と何度か見かけたのですが
わりとまともだったのですか
茶道やっているので応援したいような したくないような複雑さ
ムクゲって・・
> ムクゲって・・
該当部分を削除します。申し訳ありません。
利休が信長に見せたのは、金に輝く蝶と波だけではなく、月です。
むくげについて表現したのは朝鮮の女であり、利休ではありませんでした。
> 利休が信長に見せたのは、金に輝く蝶と波だけではなく、月です。
> むくげについて表現したのは朝鮮の女であり、利休ではありませんでした。
修正します、ご指摘感謝です。