今すぐにでも 映画「チョコレートドーナツ」ネタバレなし感想+ネタバレレビュー

個人的お気に入り度:8/10
一言感想:ただの泣ける映画とは、ちょっと違う
あらすじ
1979年のカリフォルニア。
ゲイバーでショーダンサーをしているルディ(アラン・カミング)は、弁護士のポール(ギャレット・ディラハント)とカップルになる。
ある日ルディは、ダウン症の少年マルコ(アイザック・レイヴァ)と出会う。マルコは、母親が薬物中毒のために逮捕され、見捨てられてしまったのだ……
Twitterなどで見かける限り、本作を「泣ける映画」であると思って観ている人が多いようです。
そこを期待しても、裏切られることはないでしょう。
本作はゲイカップルの苦悩と、ダウン症を持つ少年の交流を描いており、彼らに感情移入をすると涙腺がついつい緩んでしまいます。
自分には「泣ける」こと以上に、重要なメッセージを持つ作品であると思いました。
そのメッセージを示すのが、原題の「Any day now」。「今すぐにでも」を意味するこのことばは、作中で歌われる曲「I shall be released」の歌詞に登場しています。
この「今すぐにでも」には、「今いる世界が変わってほしい」という想いが込められているのではないでしょうか。
物語の舞台である1970年代はゲイへの偏見がまだ厳しい時代であり、ダウン症の少年を引き取る(親権を認める)だけでも注目と軽蔑の的になり、認められることがとても難しくなっています。
作中では、「ゲイには何でも無理よ」という台詞があるほどです。
また、描かれてるのはゲイやダウン症の子どもだけではなく、「物事の解決のためには、どのようにすればよいのか」という大局的なメッセージにまでおよんでいます。
もうひとりの主人公のポールが裁判で訴えたことは、例えようもないほどの「愛」に満ちており、幸せのための手段を教えてくれるように感じられるのです。
特筆すべきは、むやみに大仰にせず、ごく静かに「事実」を知らせる演出がされていることでしょう。
これは、「泣かそうとする」シーンでおおげさな音楽を流し、登場人物がさめざめと泣くような邦画の演出にうんざりしている人に観てほしいです。
ラストの演出により、この映画で描く「主題」がはっきりと浮かび上がりました。
観る人によって、捉え方が異なる映画です。
障がい者を描いた映画であり、ゲイ・ムービーであり、「家族」も描いています。
個人的には、この映画はやはり「家族」の物語であると感じました。
(たとえ血がつながっていなくとも)子に対する親の無償の愛が描かれていることが、何よりも尊く感じられたからです。
似た作品には、レズビアンの親を描いた「キッズ・オールライト」、または漫画作品の「ニューヨークニューヨーク」が思い浮かびました。
![]() | 羅川 真里茂 720円 powered by yasuikamo |
終盤には、「チョコレートドーナツ」と同じように、ゲイのカップルが親に恵まれなかった子どもを引き取るエピソードが出てきます。
引き取られた子どもが主張する「巡り合わせ」ということばは、「チョコレートドーナツ」の主題にも通ずるものがありました。ぜひ、読んでほしいです。
そして本作の素晴らしいところがもうひとつ。それは音楽!
主人公を演じるアラン・カミングがゲイバーで過去の名曲たちを高らかに歌うのですが、その歌詞が映画の物語(主人公の想い)とシンクロしているのです。
アラン・カミング自身の歌唱力により、作中でプロの歌い手を目指していることの説得力が感じられるだけでなく、より主人公に感情移入させてくれます。
また、アラン・カミング自身はバイセクシュアルであり、同性婚をしていたりします。
今回の役はまさにハマリ役。彼以上の適役はいないでしょう。
秀作ではありますが、展開には少なからず好き嫌いがわかれます。
単なる娯楽映画ではなく、心に残るメッセージ性の強い映画を期待する人におすすめします。
以下、結末も含めてネタバレです 鑑賞後にご覧ください↓
~主人公の過去を描かない理由~
本作の否定的な意見には、「主人公のルディが、なぜあれほどまでに他人の子どもを助けようとしたのかがわからない」というものがありました。
確かに作中では、なぜルディがダウン症児のマルコを引き取ろうと思ったのか、ルディの過去に何があったのかはあまり語られません。
しかし、自分はこのことにも意味があったと考えます。
作中では、ルディはポールの過去を聞くも、自分の過去を話すことを、はぐらかさそうとしました。
これは、ルディ自身が「話したくない」と思うほどに不幸な人生をすごしていたからではないでしょうか(それは、ゲイへの偏見のためでもあったのでしょう)。
そんなルディにとって、ダウン症児として生まれ、薬物中毒の母親から引き離されたマルコは「愛されていない」という、自身の境遇を重ね合わせる存在だったのでしょう。
ルディの過去を描かないことで、観客それぞれが想像して、観客自身の境遇を重ね合わせることができるはずです。
また、マルコが「ハッピーエンドの物語」を望んでいたことも、ルディの過去を描かなかった理由であると思います。
哀しい話は、あまり聞きたくないものですから。
~ハッピーエンド~
しかし、物語は哀しすぎる結末を迎えます。
マルコの母は早期仮釈放を引き換えにマルコの親権を奪い、母の家を去ったマルコは3日歩き続けた結果、橋の下で亡くなってしまうのですから……
秀逸なのは、マルコが夜道で歩いている姿を見せるも、その「死」については映像では見せてはいないことです。
あるのは、今までの登場人物がルディからの手紙を受け取り、ルディがその文面を淡々と語ることのみです。
今まで、観客は主人公のルディたちに感情移入して映画を観ていたのに、ここでは第3者として事実を手紙で知ったような感覚を得ます。
これこそが、この映画の狙いなのでしょう。
「事実」はみんなが目で見えるものではありません。
「ダウン症の子どもが三日三晩歩いて死んでしまった」ということも、新聞の片隅に載るようなことで、気に止める人もほとんどいません。
しかし、映画でルディ、ポール、マルコの関係を描いたことで、この事実が、とてつもなくも重く、哀しいものに思えるはずです。
マルコは、ルディが話してくれるお話に、ハッピーエンドを望んでいました。
ハッピーエンドのためには、どうすればいいのか。
それこそ、「Any day now(今でこそ)」行動を起す(考え方を変える)べきなのでしょう。
哀しい事実を示すことで、この映画はそのメッセージを伝えています。
~ポールの主張~
裁判で、検事はルディが女装を見せたかなど、ことさらゲイであることを問題視していました。
このことに、ついにポールは憤慨します。
「あななたちに、何が最善かわかるのか?
これはマルコの審理です。
誰もダウン症の、太った子どもを引き取ろうとする子はいない。
誰もほしがる人がいないからだ。私たち以外には。
彼に権利を与えてください。マルコを最優先に考えてください。
これは、すぎた話なのでしょうか」
問題を解決するのに、揚げ足をとるばかりなのは、愚かしいことなのではないでしょうか。
大切なのは、マルコ本人の幸せです。
彼を愛してくれる人がいることです。
チョコレートドーナツが大好きで、ディスコダンスの名人であったマルコが、ハッピーエンドを迎えられるようにするには、何よりもそれが大切だったはずなのに……
裁判長の女性は、検事に比べればふたりの愛情を察し、話もわかる人物であったようですが、裁判の終わりに「同性愛を隠さないことがふつうだと思う考えを持つ可能性がある」と宣言していました。
まだまだ、同性愛は公にすべきではないというのが、世間の風潮であったのでしょう。
~差別ではなく事実?~
この前に、ポールがゲイの偏見を「差別ではなく事実」と言い、ルディが「キング牧師とはえらい違いね」と応えることも印象的でした。
ここでポールがどこかゲイに関して冷めた目で観ていた(達観していた)ように思えるため、裁判での主張がより感動的になっています。
また、ルディが自身を「かわいそうなロイス・レイン」と例えていたことには、ちょっと笑ってしまいました。
どこかで、スーパーマンのような人物が現れ、問題が解決することを望んでいたのかもしれません。
しかし、ただ変わることを願うだけでは問題解決に至りません。
黒人の弁護士が「正義はない、それでも戦うんだ」と言ったように、自分(誰か)が行動し、人々の考えを変えなければならないのでしょう。
~作中の楽曲~
オリジナル版の曲を紹介します。
・Come to me
映画のはじめに歌われた曲です。ストレートに、愛したい、愛されたいルディの想いを表しているようです。
<歌詞>
・One Monkey Don't Stop No Show
ルディがポールとケンカしたときに歌われました。ポールに「あんたのような猿、いなくたって私は生きていけるわよ!」と主張してるかのようですね。
<歌詞>
・ Love don't live here anymore
マルコが施設に奪われたときに、歌われていました。
<歌詞>
・I Shall Be Released
マルコが亡くなり、ルディは「いつか私も解き放たれる」と全身全霊を込めて歌いました。
それは、マルコのような親に恵まれない子ども、自分を含めたゲイや、そのほかの恵まれない人が救われてほしいという願いが込められているのでしょう。
<歌詞>
・Metaphorical Blanket
エンドロールで流れたのは、ルーファス・ウェインライトによる、この映画のためのオリジナル楽曲でした。
ルーファス自身も、ゲイであることをカミングアウトしています。
「まださよならは言わない
でもあなたは行ってしまった。
あなたを離したくないと思った。
あなたがいない部屋にひとり戻った。
でも、誰にでもわかること。
毛布は火を消さない。誰にも消せない炎がある」
マルコを失ったことの悲しみを歌いながらも、「消せない炎」があると、これからの希望も感じさせました。
おすすめ↓
<寄稿・楽曲|映画『チョコレートドーナツ』 オフィシャルサイト>
<「チョコレートドーナツ」の“スーパースター”アイザック・レイバ、初来日で夢を語る>
<#148 チョコレートドーナツ/いろんな家族のかたち | Tunagu.>
>むやみに大仰にせず、ごく静かに「事実」を知らせる演出
ゲイへの偏見が常識だった時代に青春を過ごしてそうな年配の方が多かったのですが、思い返せば周囲の観客の溜め息や呟きにすすり泣きまで聞こえるくらい静かでした。
>〜主人公の過去を描かない理由〜
過去どころかゲイというだけで現在進行形で辛い人生を生きている自身と重ね合わせて放って置けなかった・・・から、ポールとマルコと暮らす日常が掛け替えの無い幸せになっていく様子が良かったです。
>〜ハッピーエンド〜
二人のお父さんを幸せにした魔法の少年マルコのお話である本作もハッピーエンドで終わってくれないかと、観賞中はずっと祈っていました・・・。
>〜ポールの主張〜
>検事はルディが女装を見せたかなど、ことさらゲイであることを問題視していました。
>問題を解決するのに、揚げ足をとるばかりなのは、愚かしいことなのではないでしょうか。
>大切なのは、マルコ本人の幸せです。
>彼を愛してくれる人がいることです。
>裁判長の女性は、検事に比べればふたりの愛情を察し、話もわかる人物であったようですが
確かに人間の悪意は底知れない恐ろしさがあり、某少女とクマのぬいぐるみの残酷漫画のような懸念を抱く事は正しいです。ですが、ここはそれを見極めるのが貴方方の仕事でしょうに!
怒りを喚起する事が目的の映画ではない事は解っていますが「あなたを抱きしめる日まで」のヒルデガードだらけのような法廷には「どいつもこいつも!」と頭にキてしまいました。特にポールの元上司の「バキュン!」には、その場に居たら殴りかかってしまいそうな程に激怒させてくれました・・・
>まだまだ、同性愛は公にすべきではないというのが、世間の風潮であったのでしょう。
ポールの手紙を受け取った人達が「間違いを犯してしまった」と気付いてくれたのか、「しょーがねーだろ」と開き直って新たなバッドエンドを迎えるマルコを増やし続けたのか・・・前者であるから、この映画が絶賛される21世紀が有ると思いたいです。
まさに「ただ泣ける映画」とは違いましたね。
中高年になり、感動する力が衰えているにもかかわらず、
ラストはすぐに受け入れるのが難しく、
口をあけたままただただルディの歌を聴くしかなかったです。
「I SHALL BE RELEASED」は、ホントぐっときました。
「ニューヨーク・ニューヨーク」もいい漫画ですよね。
実は持ってます(笑)
やっと、今作をdvdで見れました。シンプルでありながら、ストレートに飛んでくる一言一言、歌詞、時代背景に圧倒されてしまいました。
揺さぶられた心が、この論評で少し落ち着けました。また楽しみしています!!
今さらですが、少々感想を書かせてください。
ゲイへの差別には本当に歯ぎしりしそうなほどの怒りと悲しみを覚えましたが私はマルコの母親にもとても悲しみを感じました。
マルコは「お話を聞かせて。ハッピーエンドのね。」とルディに頼みました。これは以前、眠るときにそうしてもらっていたからこそのお願いだったと思います。そしてそうしてくれていたのはもちろん母親だっだのではないでしょうか。
このまるで母性のかけらも無いような母親も以前は優しいお母さんだったのだと思います。
でもこの時代のアメリカでシングルマザーがダウン症の子供を育てるのは大変な苦労であったと思います。
はじめは優しい母も厳しい現実に疲れ切り、薬と男に逃避していった…。そんな風に感じました。
私も子供を持つ母親として、そんな感想も持ちました。
ルディもポールもマルコも、そしてマルコの母親も、とてもとても悲しい映画でした。