母さん、ありがとう 映画版「寄生獣」ネタバレなし感想+ネタバレレビュー
個人的お気に入り度:8/10
一言感想:原作を超えた、“子”の葛藤があった
あらすじ
高校生の泉新一(染谷将太)は、地球の外から現れた謎の生命体により“寄生”をされてしまう。彼の右手は“ミギー”と名乗り、自我を持ち始めたのだ。
時を同じくして、ちまたでは猟奇的な殺人事件が連続する。
寄生生物でありながら教職に就く田宮良子(深津絵里)は、“実験材料”として新一を興味深く観察する。
※いただいた意見から少しだけネタバレに追記しています(12/4)
人気作品を映画化することは、じつに難しいと思います。
「あのシーンが違う」「なぜ変えてしまうのか」「イメージに合っていない」などと、原作をよく知るファンほど“文句”の量は増えてしまうのですから。
それは、大傑作漫画「寄生獣」の映画化というのであれば、なおさらのことです。
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「寄生獣」のおもしろさ、幅広い層からの絶賛は漫画ファンであれば誰しもが知るところでしょう。
たった10巻(書籍形態によって差はあり)のなかに、人間ドラマ、グロテスクな寄生生物の斬新なアクション、人間の根源に迫る哲学に至るまで、いま読んでも新しい発見がある奥深さがある、エンターテインメント性とメッセージ性を兼ね備えている作品なのです。
そうであるからこそ、映画化は不安でした。
あの濃密な内容が2時間×2部作の映画のなかに収まるわけはないと、どうあっても原作のおもしろさに勝てるわけはないと……
ハリウッドでの映画化の計画が流れたり、映画ファンからはあまり評価されていない山崎貴監督作品であるなど、不安は山積みでした。
しかし、この映画版「寄生獣」は原作をリスペクトし、なおかつ映画独自のアレンジが有効に作用した新たな秀作であると思います。以下に優れた点をあげてみます。
(1)2時間弱という制約がありながら、原作漫画の重要なシーンをほぼすべて拾っている
本作で描かれるのは、原作の3巻くらいまでのエピソードです。
それでも相当な量ですが、映画版ではいくつかの登場人物を整理、統合することによりすっきりとエピソードをまとめています。
そのために原作の“宇田”(あごに寄生生物がついている気のいいおじさん)と“加奈”(寄生生物を感知する能力があるスケバン女子高生)が未登場になっていますが、そのためにエピソードの主軸がはっきりしています。
これは、ひとつの映画として完成度を高めるための英断でしょう。
(2)映画版でのオリジナル要素がほぼすべていい方向に働いている
原作ファンであれば「なるべく忠実にしてくれ」と思うところですが、映画版では新しい設定がいくつか入っています。
それはごく小さなエピソードがほとんどなのですが、これが後半の展開への伏線となっていたり、登場人物の心情をより表したものになっていました。
(3)より“子の母に対する想い”が強調されている
これが映画版で、本当に感動した部分でした。
原作から変更された点は細かいものがほとんどなのですが、主人公の葛藤と決断の奥深さは原作を超えていました。
このなかで(3)は、観る人によっては原作の改悪と思う人もいるかもしれません。
しかし、母親と主人公の何気ない会話や、原作にない“絵画”のシーンを思い返してみてください。
きっと、その意味するところに気づけると思います。
また、言わずもがなのことではありますが、原作の奇妙な寄生生物の造形を実写映画で再現したことも賞賛するべきでしょう。
本作は、人気ゲーム「メタルギアソリッド」でおなじみの小島プロダクションによる3Dスキャン技術により立体的な寄生生物を創造しています。漫画で観た荒唐無稽とも言える気持ち悪さ、圧巻のバトルが“実写”で観ることができることだけで、感動できるのです。
また、グロテスクな描写に遠慮がないことも魅力です。
「寄生獣」のグロさは寄生生物の恐ろしさ、「人間を喰らう」ということへの“疑問”と“正当性”を問いかけるために必要不可欠のものです。
本作はPG12指定ですが、その指定でギリギリ許されるくらいの、殺傷シーン、人体損壊のシーンが多々あります。お子様の鑑賞はとてもオススメできません。
ファミリー向けの映画を手がけてきた山崎監督(とスタッフ)が、ここで手を抜かなかったことにも胸を打ちました。
BUMP OF CHICKENによる主題歌「パレード」は賛否あるようですが、自分はかなり気に入りました。
その歌詞は“自分が自分でなくなる”主人公の恐怖と、そして喪失を表現しているかのようでした。
もちろん不満もあります。
多くの方があげるのは、そのキャスティングでしょう。
主演の染谷将太もヒロインの橋本愛も原作とは“見た目”から原作と違いますし、もうひとりの主人公である寄生生物“ミギー”の声(とモーションキャプチャー)の担当が阿部サダヲというのもイメージとは違います。
公式サイトでミギーの紹介ページを見ると、なんと「おしゃべりで陽気」と記されているほどで、あまり“原作に近づけよう”という気概は感じられません(原作を読んでいる人ならわかると思うのですが、ミギーはおしゃべりではあるけれど陽気ではなく“冷静沈着”な性格ですよね)。
ここで賛否がわかれてしまうのは、致し方ないと思います。
※以下の意見をいただきました。
軽いノリのミギーには賛否ありそうですが、この短い尺で物語を進める上では良いリズムになっていたと思います。恐らく原作通りの性格のままでは、テンポの悪い地味でつまらない映画になっていた気がしてなりません。
でも裏を返せば、原作の見た目のイメージではなく、“実力派”のキャスティングがなされているということ、原作に縛られないキャラクターづくりができているということでもあります。
事実、映画版の新一もミギーも、性格の少し違う“新たなキャラクター”として、とても魅力的に感じました。
具体的に言うと新一はよりヘタレになって、ミギーはちょっとムカつく感じになっています。これはこれで楽しめました。
また、キャスティングでとくにおもろかったのが東出昌大さん。
正直、彼は演技がうまいほうではないと思っていたのですが、本作では寄生生物という“非人間”の役どころで、その棒読み具合がむしろハマっているという絶妙な演技を見せていました。
本作の東出さんはマジで怖いので、2週間後に公開される恋愛映画「アオハライド」でも「いつ喰われるんだろう」と別の意味でドキドキしてしまいそうです。
ほかにも、原作の“演出”で感じ取れるシーンをわざわざセリフで表現してしまったり、細かいシーンに違和感があるなどの不満があります。
このあたりは山崎監督の悪いクセが垣間見えて残念でしたが、全体からしてみればそこまで大きな欠点でもないでしょう。
むしろ、山崎監督にあるまじき(超失礼)映画的な演出が優れていたことにも感動しました。
「ALWAYS 三丁目の夕日」や「永遠の0」にあった“大仰な音楽で盛り上げる(ラストだけうるさいけど)”や“登場人物がさめざめと涙を流す”ということもなく、“暗”を基調とした画のおもしろさも際立っていました。
山崎監督が嫌いだという方にとっても、本作は見応えがある作品になっているのではないでしょうか。
とにかく、これは原作を知らない方はもちろん、「寄生獣」の大ファンであるという方にもおすすめします。
個人的には、前述した“母と子”の描きかたにぜひ注目してほしいです。
大傑作の「寄生獣」に、まさかこの点で“原作超え”という表現を使うことになるとは思ってもみませんでした。
いくつかの改変の理由に気づけたとき、原作にはない感動があるはずです。
ps.「寄生獣」を知ったあとには、原作者・岩明均さんの「ヒストリエ」「七夕の国」「風子のいる店」もぜひ読んでほしいです。
いずれもテイストは異なりますが、岩明さん独自の倫理観や価値観が現れている奥深い作品です。
以下、結末も含めてネタバレです 鑑賞後にご覧ください↓ 原作漫画のネタバレは最小限にしています。
始めに不満点を書くので、映画の文句を知りたくないという方は読み飛ばしてください。
〜野暮な不満点〜
まず、予告編がネタバレしすぎなのは気になりました。
島田を倒すのが(原作にない)“(ミギーの)弓矢”ということがわかってしまったり、後藤のゾワッとするはずの最後のセリフ「この種を食い殺せ」など、「あ、つぎにこれが来るんだな」と思わせてしまうのはよくないです。
オランジーナと湖池屋のポテトチップスのプロダクトプレイスメントもちょっとイヤでしたね。まあ「STAND BY ME ドラえもん」ほど露骨ではありませんでしたが。
島田とのバトルにも不満があります。
新一は、ロッカーに隠れている里美(ヒロイン)を救うために、島田に後ろから体当たりをしています。スキだらけなんだから、そこは即効でミギーで攻撃しろよ……
また、新一は島田が殺した大量の惨殺死体を観て叫ぶのですが、原作のその後にあった“落ち着きを取り戻す”心理描写がなくなっています。
これは新一の(哀しい)変化がわかるものなので、カットされたのは残念でした(お父さんのセリフもないからしかたがないけれど)。
笑ってしまったのが、最後に後藤が人肉をフォークとナイフで食べていて、ペッと大きいなイヤリングを吐き出すシーン。そんなもんが薄切り肉の中に収まるわけないだろ!
また、最後に登場した探偵・倉森が、ミギーを見て何の驚きもないのも違和感がありますね。原作とはリアクションがぜんぜん違います。
※以下の意見をいただきました。
田宮と新一が出会う場所が水族館へ変更されていたのは、わざわざ制服警官のAを連れてきているのにその場所はさすがにないだろwwと劇場で突っ込んでしまいました。 これから主人公に話す内容がセックスだのクラスが人質だのという話をするのに そのチョイスは原作の田宮の聡明な設定からしても違和感しか感じませんでした。
※以下の意見もいただきました。
田宮良子は原作以上に出番が増えたものの、何度も同じことを呟き(地球上の~、実験材料等)、Aや島田等ネットワークの管理もできず、島田を爆弾で殺せず、インパクト大の「この種を食い殺せ」周辺のセリフを後藤にもっていかれるという微妙な改変の積み重ねが、原作のような他の寄生生物とは違う頭の切れるキャラに見えず、少しおマヌケな実験馬鹿にしかみせませんでした。(深津絵里は頑張ってましたが)
〜原作との細かい変更点〜
・オープニング
原作では寄生生物は空中から降ってくるのですが、映画では海に落ちた寄生生物がコンテナ船で日本までやってくるという描写が追加されています。
これはより“世界規模で寄生生物が侵略を始めている”ことを示しているのかも(あるいは今後の伏線)
・新一が“右手の異変”に気づくシーン
消しゴムを拾おうとして、一瞬手が伸びたりするのは映画オリジナルでした。
・ミギーはお風呂場で新一の“生殖器”をボッ○させようとする。
原作ではトイレでさせようとしていましたね。どう見ても自慰です。
・インターネットやスマートフォンが登場する
原作が描かれたのは1980年代後半なので、インターネットなんてまだ一般的にはありませんでした。
※以下の意見をいただきました。
一般に普及していないだけであってARPANETは1960年に、TCP/IPによる通信も1970年代に構築されています。
・ミギーは剣道や弓道などの部活動を観察している
これは後の寄生生物とのバトルで役に立つことへの伏線になっています。
・新一とミギーが始めに出会った寄生生物と闘う場所が違う
原作では公園で闘っていましたが、映画ではラーメン店になっています。“暗い場所”で人間を喰らっていた気持ち悪さが強調されていました。
・新一と田宮良子が話し合う場所が水族館になっている。
水族館は“群れ”をつくる魚がたくさんいる場所。田宮が“ネットワーク”という組織を作って群れようとしていたことへの暗示でしょう。
・キャラクターの統合
“A”と“母親を喰った寄生生物”が統合され、より物語がタイトにまとまっています。
・“A”とのバトルが学校から魚市場に変更されている
島田との闘いの舞台と被るので、いい変更点でした。
・島田は“髪の毛を抜かれた”ことにより寄生生物であることがバレ、惨殺のきっかけになる
この後に島田が、美術室にいる女生徒を「いーち、にー」と数えるシーンも映画オリジナルです。
島田の性格は原作とはぜんぜん違いますが、“裏”の顔の恐ろしさは原作よりも上なのではないでしょうか。
・島田を倒すのは、“弓になったミギー(+拾った鉄の棒で作った矢)”だった
これも、ミギーが弓道を観ていたことが伏線になっています。
〜母〜
原作の変更点とひとつに、
・新一が美術部員という設定になっている
・新一の父がすでに亡くなっているということでしょう。
ということがあります。
ここで、思いだしてほしいのが、新一が描いた絵が女生徒に「好きな人なの?」「里美に似ていない?」と茶化されて、除光液をかけて“書き直し”をするシーンです。
この絵は、後にミギーから母を描いていると見抜かれていました。
新一が大事にしている母の絵を台無しにしたのは、“母と自分の世界”を誰にも干渉してほしくなかったことが理由のひとつだと思います。
彼にとって、母は油のヤケドから救ってくれたことはもちろん、たったひとりのかけがえのない家族です。
母に手を組んでいっしょに帰るとき、新一はちょっとイヤそうでしたが、内心はこの関係をとても愛おしく思っていたのでしょう。
しかし、新一はミギーのことを打ち明けることができず、母親に対して“俺のことはほっといてよ”と声を荒立ててしまいます。
そのわだかまりが解けないまま、母は“A”に殺され、新一は母の姿をしていた“A”に襲われてしまいます。
新一は絶叫し、訴えます。
「俺、本当に感謝しているんだ!」と—
新一は、母とケンカをしたまま、感謝をしていることを告げることができませんでした。
このときの新一は、本当は“母でなく、寄生生物であること”がわかっていたのでしょう。
この訴えは、新一がわずかな可能性であっても、目の前にいるのが本物の母だと願って出たものに違いありません。
母親に感謝のことばを伝えたい、
しかし目の前にいるのはもう母親ではない、
自分を殺そうとしている—
誰にも干渉されたくないほど、愛おしい母だったのに、もうどこにもいない—
これほどの、絶望があるのでしょうか。
なお、これらの母親の描写、「感謝している」のセリフは原作にはありません。
原作でのこの対峙は作中屈指の名シーンであったと思うのですが、映画ではそれにプラスアルファどころか、新一の葛藤と絶望を増大させているのです。
〜母性〜
新一が父を亡くしていたほかにも、“父親”に関してひとつ大きな変更点があります。
それは
・寄生生物・田宮良子の部屋に、彼女の母だけでなく父も来ていた
ということです(原作では母しか来ていませんし、田宮が妊娠したことが知らされていません)。
ここで、母は田宮が“娘ではない”ことに気づくのですが、父親は「何を言っているんだ」と気づくことができませんでした。
母親は自分の胎内で赤ちゃんを育て、つわりや出産などで苦しむため、父親より子どもに対する愛着がわく、とよく言われています。
この変更により、父親が感じることができない“母性”がより強調されていたのではないでしょうか。
田宮も最後に「母親は理屈を超越した行動をするものなのか?」と疑問に思っています。
これから子どもを出産する田宮が、いかに“母性”を感じるのか—
それは完結編で描かれることでしょう。
〜もう戻らない〜
新一は、眠って鋼鉄化したミギーを武器に“A”と闘います。
“A”がするどい攻撃を新一にくり出したとき、“A”の手がわずかに攻撃をそらせてくれました。
新一はこの機を逃さず、“A”の首を刎ねました。
新一は、わずかに母が“A”に“まじっていた”こと、母が助けてくれたことを知りました。
しかし、彼は母がもとに戻る、また会えるなどとは思わず、躊躇せずに“A”を殺したのです。
新一は、家で“A”に襲われたときには“わずかな可能性でも寄生生物が母であることを願っていた”のに、ここでは“わずかな可能性があったのにも関わらず母の姿をした寄生生物を殺した”のです。
これは新一が絶望を乗り越え、成長したシーンなのでしょう。
もしくは、新一がミギーのような冷酷な寄生生物に近づいていったことも暗示しているのかもしれません。
前述の“絵を台無し”にするシーンも、この“母親を自分の手で殺す”未来を予言していたのかもしれません(よりにもよって、その絵は母が新一を守るためにヤケドをしたように、ドロドロと崩れ落ちていました)。
※以下の意見をいただきました。
この絵を台無しにするシーンは、里子が島田に投げつける小瓶が、原作の硫酸から溶解剤みたいなものに変わっていることへの伏線ともとれました。
※以下の意見もどうぞ
薬品で母の顔をドロドロに(変形)するのは、母親がパラサイトになる暗示だとも汲み取れました。それをヘラでこそぎ取るのはレビューの通り“母親を自分の手で殺す”暗示かと。
また、原作では母親が“残っていたこと”を臭わせる描写は一切ありません。
間違いなく安否ある改変ですが、原作とは違った“母殺し”の葛藤が描けているので、自分は賞賛したいと思います。
〜これから〜
原作からカットされたのは、新一が“犬の死体をゴミ箱に捨てた”後のシーンもあります。
原作を未読の方にはネタバレになるので詳細は言いませんが、これは新一の“変化”を描くために、とても重要なものでした。
このカットも意図的でしょう。
おそらく“完結編”で、里美にそれを“伝える”シーンで、初めて描かれるのではないでしょうか。
また、最後に母が新一を助けてくれたということは、母は新一の“感謝している”ということばを聞いていた可能性もあるのではないでしょうか。
もちろん、その可能性はわずかです。
だけど、信じていたいです。それが、“人間”の希望でしょうから。
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寄生獣 - みんなのシネマレビュー
第66回映画批評 『寄生獣』 逆襲の山崎貴: ホラーショー!民朗の観たまま映画批評(高校生のころの民朗さんが、なぜ「寄生獣」に救われたかを、ぜひ聞いてほしいです)。
>この“母親を自分の手で殺す”未来を予言していたのかもしれません
>(よりにもよって、その絵は母が新一を守るために
>ヤケドをしたように、ドロドロと崩れ落ちていました)。
この場面は確かに映画では主人公自らが母親の寄生体に決着を着ける事への暗示にも見えますが
里子が島田に投げつける小瓶が原作の硫酸から溶解剤みたいなものに変わっている事への伏線ともとれましたね。
あと、水族館への場所の変更は
わざわざ制服警官のAを連れてきているのにその場所はさすがにないだろwwと劇場で突っ込んでしまいました。
これから主人公に話す内容がセックスだのクラスが人質だのという話をするのに
そのチョイスは原作の田宮の聡明な設定からしても違和感しか感じませんでしたね。
しかしその辺りの細かな設定変更を除けば
良質な映像化を果たしたというヒタナカさんのレビューに同感です。
ただ前編だけ見ていても感じたのは
原作の重要なエピソードをトップスピードで消化していた印象が強く
後編はどれだけ原作の見せ場を再現できるのか、残りの尺からして原作のダイジェスト映像化にしかならないんじゃないか
という不安も感じた前編でした。
公開するまではホントに心配だった実写版『寄生獣』ですが、本当に色々な脚色を含めて良い映画に仕上がってましたね!
批評の中で話している高校の頃の話は、ラジオを録音する前には特に話す気は無かったのですが、自分にとって『寄生獣』がどれくらい特別な漫画か説明しようとして、つい出てしまいました。
録り終えた時は、余りに個人的な話なので、結構後悔したんですが……。
あと批評の中でも話したんですが、ラストバトルで新一のお母さんの体が寄生生物の攻撃の軌道を逸らせたのは、少し個人的に不満だったのですが、ヒナタカさんの、
>新一は、わずかに母が“A”に“まじっていた”こと、母が助けてくれたことを知りました。
>しかし、彼は母がもとに戻る、また会えるなどとは思わず、躊躇せずに“A”を殺したのです。
>新一は、家で“A”に襲われたときには“わずかな可能性でも寄生生物が母であることを願っていた”のに、
>ここでは“わずかな可能性があったのにも関わらず母の姿をした寄生生物を殺した”のです。
この感想を読んで目が覚める思いでした。
一度目の母親(A)との対峙とこのシーンが対になっていると。
本当に山崎貴らしからぬ(失礼)映画的なシーンですね。
ああ、続編が公開される4月が待ち遠しい!
良かった!ちゃんと「寄生獣」の映画でした!だけど・・・
お父さん(と宇田さん)は犠牲になったのだ・・・!
母子愛が大きなテーマなのは原作ファンなら周知の事実なので、山崎監督はあえてこれに前面に出して映像化をしたくての英断!であり、決して「他人の原作の知名度借りて自分のやりたい事をやってみた」なゲスな演出ではないのは解るのですが・・・正直、自分はお父さんや宇田さんも好きなキャラなので、なんとなく受け入れ難いモヤモヤが残ってしまいました。
たぶん、私と同じような原作ファンの方は少なからず存在すると思うのですが、本作のヒナタカさんのレビューは「受けいられた原作ファン」の意見としてとても参考になります。流石です・・・!
>ファミリー向けの映画を手がけてきた山崎監督(とスタッフ)が、ここで手を抜かなかったことにも胸を打ちました。
ザクザク斬殺しまくるけど切断面をあまり見せない、血をブシュ!ブシュ!出さないなど、原作の残酷さを損なわずにPG12指定に抑える苦労が伺えました。「神さまの言うとおり」のビー玉みたいに、今後はこんな工夫が求められて行くのかな・・・。
>阿部サダヲ
予告の「ざんねん!という感情だ」とか、あまりに阿部サダヲ過ぎるとガッカリしていたのですが、全編通して見るとちゃんと「ミギー」を演じておられたと思いました。
>笑ってしまったのが、最後に後藤が
しかも凄く美味しそうなのですよね(当然、実際は獣肉なんでしょうけど)本作一番のグロテスクシーンだと思います。
<KumaGuyさん>
>この場面は確かに映画では主人公自らが母親の寄生体に決着を着ける事への暗示にも見えますが 里子が島田に投げつける小瓶が原作の硫酸から溶解剤みたいなものに変わっている事への伏線ともとれましたね。
本当だ!追記させてください。
>あと、水族館への場所の変更は
>わざわざ制服警官のAを連れてきているのにその場所はさすがにないだろwwと劇場で突っ込んでしまいました。
>これから主人公に話す内容がセックスだのクラスが人質だのという話をするのに
>そのチョイスは原作の田宮の聡明な設定からしても違和感しか感じませんでしたね。
あそこでセックスの話されてもなあ(笑)。追記します。
ちなみに、Aを警官にした理由について、民朗さんが大納得の理由をあげているので、ぜひ記事最後のリンクから批評を聞いてみてください。
<民朗さん>
> 批評の中で話している高校の頃の話は、ラジオを録音する前には特に話す気は無かったのですが、自分にとって『寄生獣』がどれくらい特別な漫画か説明しようとして、つい出てしまいました。
> 録り終えた時は、余りに個人的な話なので、結構後悔したんですが……。
言ってくれてよかったですよ!
自分も「きっとうまくいく」や「ヒミズ」が救われた作品でした。
> あと批評の中でも話したんですが、ラストバトルで新一のお母さんの体が寄生生物の攻撃の軌道を逸らせたのは、少し個人的に不満だったのです
民朗さんの意見もごもっともですよね。原作はやっぱり容赦ない作品ですから。
あとはパラサイト役の深津絵里に「もし地球上の人間が半分になったら~」を言わせるのはおかしいことを民朗さんの批評でやっと気づきました。あれは市長が言うからいいのに……始めと終わりで2回言わせてしまうのもなあ……
批評で尊敬している民朗さんから、目が覚める思い、なんてことばが聞けて光栄です。
民朗さんの批評、今回超おもしろかったです!あと今月は映画批評読みたい(笑)。
<毒親育ちさん>
>お父さん(と宇田さん)は犠牲になったのだ・・・!
宇田さん(とジョー)はいいキャラしていますもんね。
>血をブシュ!ブシュ!出さないなど、原作の残酷さを損なわずにPG12指定に抑える苦労が伺えました。
個人的にはもっとブシュー!でもよかったですが、やっぱりR15+は避けたんでしょうね。
原作の再構成がうまくいっている点については、共同脚本の古沢良太氏の影響が大きいのではないかと思います。
原作内の要素の省略、役割の統合・変換、オリジナル要素の付加(本作では「絵画」)の妙が、同氏が脚本を担当したドラマ、映画『鈴木先生』のそれと同じものを感じました。こちらの作品は興業は振るいませんでしたが、再構成が機能して原作を超える場面が多々あります。
映画『寄生獣』における母子関係のオリジナル要素である「絵画」は秀逸でした。先のレビュー、コメントでもいくつかの暗示や伏線が言及されていましたが、あの薬品で母の顔をドロドロに(変形)するのは、母親がパラサイトになる暗示だとも汲み取れました。それをヘラ?でこそぎ取るのはレビューの通り“母親を自分の手で殺す”暗示かと。
その他、元パリコレモデル(東出昌大)の無駄遣い(ポージング)など、美術部要素の追加は面白かったですね。
例えば田宮良子。原作以上に出番が増えたものの、何度も同じことを呟き(地球上の~、実験材料等)、Aや島田等ネットワークの管理もできず、島田を爆弾で殺せず、インパクト大の「この種を食い殺せ」周辺のセリフを後藤にもっていかれるという微妙な改変の積み重ねが、原作のような他の寄生生物とは違う頭の切れるキャラに見えず、少しおマヌケな実験馬鹿にしかみせませんでした。(深津絵里は頑張ってましたが)
進一のミギーの細胞が体中に流れたことによるパワーアップも、原作では何メートルもジャンプしたりオリンピック選手のように速く走ったりと一度わかりやすい形で見せてくれました。しかし、映画はミギーによる説明が少しあったにせよ、唐突に校舎から飛び降りても平気なのは何も知らない観客は戸惑うと思います。
母親との戦い(映画ではA)をラストに持ってきたのは、映画の盛り上がりを考えればしょうがないですね。原作の宇田を出さない以上、母親との決着は確かにああいう風に改変するしかないと思います。しかし、その手前、宿敵Aを見つける流れが、「田宮からAの居場所が書いてあるメモを預かり、その場所に行ったら普通にAがボロい家で生活していた」だったのは拍子抜けしました。中盤のあてもなくAを探す辺りから嫌な予感がしましたが、それはないだろと…
グロテスクなシーンが想像以上に多かったのは、いい意味で期待を裏切られました。島田が美術室で暴れて女子生徒一人がかなり直接的な描写で胴体が真っ二つになるシーンを見て「やるなあ」と思いつつ「でもそこはサクっと女子生徒まとめて切断でいいんじゃないのかな」と思ってもみたり。ああ、でもそれだとヒロインも死んじゃうか。
ヒロインといえば橋本愛は少々ミスキャストだと感じました。化粧のせいで顔が白すぎなのも地味に気になったり。
水族館のシーンは本当になんなんですかね。喫茶店では映画的にパッとしないのはわかりますが。場所の変更の理由は、映画の冒頭で寄生生物が海から来たことを関連付けるため…という考え方もできますが、ただ単純に水族館が独特の不安感を煽る雰囲気だから…なんていう安易なことなのかもしれませんね。
ラーメン屋、母親の職場、魚市場、Aが住んでる家等、なんか古臭い建物や街並みが多いのはALWAYSの使い回し?(これは冗談です)
他にも犬を埋めるシーンがカット等、いろいろ言いたいことはあるのですが、これ以上は「確かにこの映画はそれなりに面白いかもしれないけど、それは原作が超面白いから」などという、身も蓋もないことを言いいそうなのでやめます。(言っちゃった)
> 阿部サダヲ
軽いノリのミギーには賛否ありそうですが、この短い尺で物語を進める上では良いリズムになっていたと思います。恐らく原作通りの性格のままでは、テンポの悪い地味でつまらない映画になっていた気がしてなりません。
> STAND BY ME ドラえもん
『ドラえもん』ついでに、交尾云々に興味を持つ話。タイトルは失念しましたが、じつは藤子Fが短編SFで描いているんですよね。
主人公の少年のところに宇宙人がやってきて…という漫画。
> 原作1980年代、インターネットはまだない
えーと…、これを書くと野暮と言われそうですが、一般に普及していないだけであってARPANETは1960年に、TCP/IPによる通信も1970年代に構築されています。
> 映画『寄生獣』における母子関係のオリジナル要素である「絵画」は秀逸でした。先のレビュー、コメントでもいくつかの暗示や伏線が言及されていましたが、あの薬品で母の顔をドロドロに(変形)するのは、母親がパラサイトになる暗示だとも汲み取れました。それをヘラ?でこそぎ取るのはレビューの通り“母親を自分の手で殺す”暗示かと。
なるほど、追記させてください。
> 例えば田宮良子。原作以上に出番が増えたものの、何度も同じことを呟き(地球上の~、実験材料等)、Aや島田等ネットワークの管理もできず、島田を爆弾で殺せず、インパクト大の「この種を食い殺せ」周辺のセリフを後藤にもっていかれるという微妙な改変の積み重ねが、原作のような他の寄生生物とは違う頭の切れるキャラに見えず、少しおマヌケな実験馬鹿にしかみせませんでした。(深津絵里は頑張ってましたが)
そこもそうなんですよね……そもそも「地球上を〜」もなんで田宮に言わせるのか(しかも2回も)。追記します。
> 軽いノリのミギーには賛否ありそうですが、この短い尺で物語を進める上では良いリズムになっていたと思います。恐らく原作通りの性格のままでは、テンポの悪い地味でつまらない映画になっていた気がしてなりません。
なるほど、そういう見方もありますね。
追記させてください。
> > 原作1980年代、インターネットはまだない
> えーと…、これを書くと野暮と言われそうですが、一般に普及していないだけであってARPANETは1960年に、TCP/IPによる通信も1970年代に構築されています。
ご指摘感謝です。追記します。
だいたい新一の涙が流れなくなったのはミギーの体が混じったこともありますがその一番大きな理由は母親に会えなくなったからです。旅行に行った母親と新一が再開した時には母親はもう寄生生物だったわけで、その結果母親と会えなかった新一は人間味を失っていきます。だからこそ最後に田村玲子という「母性」に出会ったことで新一にとっては失った母親がそこではじめて「帰って」るわけですから。
正直本来寄生されて死んでいるはずの母親に奇跡が起きて母性が蘇るなんて陳腐としかいいようがないですね。そんな表現でお涙頂戴で終わられたのは間違いなく改悪以外の何者でもありません。
「胸の穴」の伏線を理解してもう一度原作を読み直す必要があるのでは?
感情を持たない彼らには人間への「愛」というのは理解できない筈です。ましてや「奇跡」という非科学的現象については尚更です。なので本来ならミギーの反応は「そんなバカな!脳を切断されて完全に寄生されてるのに新一を助ける事など不可能な事だありえない!!」と否定する筈です。
しかし、改めて考えてみると一つ納得できそうな結論が思い当たりました。それはミギーが「悪魔」という言葉を覚えた場面がありましたね。つまりミギーは「悪魔」という言葉を調べる際にオカルトや心霊怪奇方面の「ムー」あたりのサイトなどを徹底的に調べ尽くしたんじゃないかと想像しましたwその中で様々な超自然現象の数々をまのあたりにして、「成る程、この世には科学では解明できない超常現象というものが存在するのか…」と納得したと思います。それで「奇跡」という言葉も覚えていったんだとすればあの場面でミギーがアッサリと「奇跡だな」と発言する理由にも納得がいきました!!w
でもこれって完結編のための長めの予告編といった作りになってるんですよね。
しかもグロシーンはかなりカットしてるし。
ちょっと一本の映画としては評価のしようがないんで、感想は通常版を観るまで保留しておきます。
あの長大な原作をうまくまとめてるとは思いましたが。
でも、やっぱりミギーはアニメ版の平野綾の方が良かったですね。自分のブログでミギーを演じた経験について語ってましたが、ここまで考えてやってたのかと感心しました。