夕焼けの罪 映画「ニンフォマニアック Vol.2」ネタバレなし感想+ネタバレレビュー
個人的お気に入り度:7/10
一言感想:笑い < トリアー監督節炸裂
あらすじ
ジョー(シャルロット・ゲンズブール)はその性遍歴の続きをセリグマン(ステラン・スカルスガルド)に語る。
ジョーは初体験の相手であるジュローム(シャイア・ラブーフ)に再会するが、性感を得られない体となっていた。
刺激を求めるジョーは、“K”(ジェイミー・ベル)というサディスティックな男に出会うのだが……
10月に公開されたVol.1から続く、上映時間4時間超えの大作の完結編です。
<Vol.1の感想はこちら>
言うまでもなく本作は完全な続きものなので、Vol.1の鑑賞は必須。いままでの出来事が重要になってくるエピソードも多いので、なるべく間をあけずに観たほうがより楽しめるでしょう。
さて、「意外と笑える」印象があったVol.1に比べて、このVol.2は重苦しい内容になっており、ラース・フォン・トリアー監督の本領が発揮されたいい感じの鬱映画になっています。
回想で主人公のジョーを演じているのも、ステイシー・マーティンからシャルロット・ゲンズブールにバトンタッチし、否応無しに時間の経過を感じてしまいます。
若いときのセックスは“性に奔放”な感じで微笑ましい(?)けれど、年をとってくるとより痛々しくなるという、ある意味自然の摂理のような印象もあり、なんともしんみりしてしまいました。
でも、観終わったときの後味はそれほど悪くありません。
トリアー監督の「ダンサー~」でもそうなのですが、ある意味主人公は「やりたいようにやった」人間なので、(個人的には)その人生を否定する気分にはなれませんでした。
ちなみに性描写はVo;1よりも幾分過激になっており、画面のボカシの比率も上がっています。
ボカシがあるとジャマと思うことも多いのですが、この作品にはあってもいいかなあ……(アレが思い切り映りまくりますから)。
Vol.1のトリアー監督らしからぬユーモアが気に入った人は、Vol.2の重さはちょっとがっかりしてしまうかもしれません。
でも、物語の聞き手であるセリグマン(ステラン・スカルスガルド)のツッコミや言動は相変わらず笑えるのでご安心を。
また、いままでのトリアー作品のセルフオマージュのように思えたシーンもありました。
これは監督のファンであれば、にやりとできるかもしれません。
また、作中には性に悩む人へやさしい視線を送っている描写もあります。
ヒドい話(ほめことば)ばかりを撮っているトリアー監督ですが、やはり自分にはどこか“救い”を感じます。
いずれにせよ、Vol.1が気に入った人は観なければならない作品でしょう。
エロエロ描写を期待するだけではなく、真摯に“性”のことを考えたいすべての人におすすめします。
↓以下、結末も含めてネタバレです。観賞後にご覧下さい。
〜6「東洋と西洋の教会(サイレントダック)」〜
なんとセリグマンが童貞だったことが明らかになります。
セリグマンは「だからでこそ君の性遍歴を冷静に分析できる!」と言っていましたけど、納得できるような、できないなような……
セリグマンはジョーのことを「アキレスと亀(ゼノンのパラドックス)」の亀に例えていました。
ジョーはセックスで何も感じなくなってしまい、亀を追いかけるアキレスのように、快楽に“到達”できなくなっていたのでしょう。
ジョーは、キリスト教のうち西方教会はキリストの磔(はりつけ)に代表されるように、苦しみが多いと語ります。
飾られていたイコンの画も西方と東方の違いを示すものだったのでしょう。
ジュロームがジョーに「ほかの男とセックスする」ことを命じるのは、「奇跡の海」を思いださせます。
そして、ジョーは通訳を介してアフリカ系の黒人をセックスに誘います。
黒人がなぜか兄弟を連れてきて、兄弟ふたりでアレをビンビンにさせながらどっちの穴に入れるかを口論し合っていたのは笑うしかないですね。<どっちが上?
ことばはわからないんですが、何言っているのかはだいたいわかります。
ジョーがサディステックな男・K(ジェイミー・ベル)のところに行ったことを、セリグマンがなんでやねんとツッコむのも笑いました。
それにしても、「リトル・ダンサー」のかわいい男の子が、女性のお尻に鞭打つというマネをするするなんて……。
レオナルド・ディカプリオが「タイタニック」で王子様を演じたのに、「ウルフ・オブ・ウォールストリート」でラリラリ最低男を演じたことを思わせますね(さすがにそれよりはマシ)。
サブタイトルの「サイレントダック」とは、Kがジョーのアソコにズブッと入れる手のことでした。<静かなアヒル
ジョーは「重くなりすぎないように」とこのエピソードを入れていましたが、それほど話の印象は変わっていないなあ……(ジョー自身が話し忘れているくらいだし)。
そういえば、ジョーはレストランのスプーンをどれだけアソコに入れれるかのチャレンジをしていましたね(このとき、公式ページのキャラ紹介で白目をむいていたウド・キアおじいちゃんがウェイター役で登場)。
これはジョーのアソコはガバガバで、サイレントダックなんか簡単に入るよ!という伏線だったのでしょう(←最低な文章)。
〜7「鏡」〜
ジョーは会社の命令で、セックス依存症(sex addicted)の集会に出ます。
彼女は性のイメージを断ち切ろうと、家の窓を塞ぎ、鏡も見えないようにして、戦いました。
でもけっきょくは「私は色情欲(ニンフォマニアック)、そんな私が大好き」と全肯定してしまう……
鏡は自分自身を映すもの。それを「見ない」でいたことが、彼女にとっては悪かったのかもしれません。
〜8:銃〜
ジョーは、L(ウィレム・デフォー)が運営する借金の取り立て屋に転職します。
豊富な(性)経験のあるジョーは適正抜群、つぎつぎと取り立てに成功します。
そして、小児性愛者を賞賛するというアグネスマジ切れなシーンがあるのはびっくりしました。
ジョーが取り立てのための“嘘発見機”に使ったのは、男根でした(ねーよ)。
男はホモの話などには無反応でしたが、少年を部屋に連れ込んだエピソードでビンビンになってしまいます。
セリグマンがこのショタコン男をブタ野郎と呼んだのは笑いましたが、ジョーは彼のことを哀れに思い、賞賛します。
小児性愛者の95%は実際に手を出さない、性という逃れられないものと戦っているのだと……
これは、「確かに」と納得してしまうものでした。
そして、ジョーが出会ったのはPという少女(ミア・ゴス)
ジョーは彼女を後継者にするために教育し、一時はレズビアンの関係のようにもなります。
しかし、Pは偶然取り立ての相手だったジュロームと、性的な関係を持つようになります。
ジョーは、裏通りで、ジュロームに向けて銃の引き金を引きました。
しかし、弾は出ませんでした。
ジュロームはジョーを何度も殴りつけます。
ジュロームはその場でPを犯します。そのときに突いた回数は、ジョーが初体験をしたときのフィボナッチ数である3+5でした。
Pもまた、ジョーに向けて放尿をして、軽蔑のまなざしを向けます。
フィボナッチ数は、Vol.1ではジョーのセックスを“自然の理”であるようかのように見せる“救い”だと思っていました。
しかし、ジョー自身が、その自然の理に否定されてしまうのです。
フロイトによると銃は男性器の象徴です。
その銃=男性自身に負けたジョーは、完全に性そのものに負けたと言っても過言ではないでしょう。
ジョーが見た崖の上の“魂の木”も、手の届かない、崖の反対側にありました。<崖の上の木
彼女の手がそこに届かない限り、幸せはないのでしょう。
〜夕焼け〜
ジョーは「私の罪は夕焼けに多くを求めすぎたことかも」と言っていました。<ジョーの罪
夕日は、「いままであったもの」の象徴であったと思います。
セックスの相手だった男たちに与えられたものを求めていたジョーでしたが、自分から「これから」のことを考えていないように思えました。
「これから」には、たとえば「母親である」ことも当てはまります。
ジョーは息子をベビーベッドに寝かせたまま、サディステックなクラブに行き、あわや息子はベランダから落ちて死んでしまうところでした(これは「アンチクライスト」のオープニングを彷彿とさせます)。
しかし、ジョーは「君は母親じゃない」と夫に責められても、性の快楽を優先してしまいました。
こうした、いままでのことを優先した=夕日を求めすぎたことは、確かに罪と呼べるものでしょう。
セリグマンの部屋からは直接朝日は見えません。
しかし、そこにも反射にして部屋に届く日の光が見えます。
ジョーは、わずかの朝日にも、美しさを感じていました。
これは、ジョーがこれからの幸せを感じ始めたというシーンなのでしょう。
またセリグマンは、ジョーが銃の安全装置を外さなかったのは、無意識の防衛であると語ります。
ジョー自身も「弾が出なくてよかった」と安堵しており、これもまた彼女の幸せを暗示させるものでした。
〜物語の終わり〜
ジョーにはじめて友だちと呼べる存在(セリグマン)ができて、ふたりがそれぞれ「おやすみ」というハッピーエンド……かと思いきや、そこはトリアー監督、一筋縄では終わりませんでした。
セリグマンはジョーの寝室に潜り込み、性器を露出させジョーを犯そうとしたのです。
続くセリグマンのセリフには、ぞっとしました。
「あれだけたくさんの男とヤッたのに」
そのことばを聞き、最後にジョーはしっかりと銃を(意識して)スライドさせて安全装置を外して、セリグマンを撃ってしまうのです。
セリグマンは童貞だと告白し、だからでこそ客観的にジョーの性遍歴を分析できると自己分析していました。
だが、そんなセリグマンも、ジョーの性遍歴を知り、性に目覚めてしまうのです。
最後にジョーが性への罪の意識から逃れられても、最後にはその性に脅かされ、けっきょくは殺人という罪を犯してしまう……
本作は性に翻弄され、ただただ身を滅ぼしていった女性の姿を描きました。
望みがあるとすれば、最後に銃を引いたとき、画は何も見えない”暗闇”だったことです(セリグマンのセリフも、銃のスライドも、銃声も、すべて音だけ)。
これはひょっとすると、ジョーの夢だとも取れるのかもしれません(眠っているときには、視覚などはないのですから)。
いずれにせよ、これから朝日を見る(であろう)ジョーの幸せを、願わずにはいられませんでした。
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でかすぎるせいでそう見えたのでしょう。
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カウンセラー
心理学者
小説家
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彼女にとって”性”は自由なものであって、誰のためのものではありません。
自分が欲求を満たすためだけのものなのです。
他の誰かを幸せにするためのものだったら、彼女はあんなに苦しむことは無かったでしょう。
そういう連合を友達と作っていたシーンがあったじゃないですか。
彼女に「水商売をしろ」と言うのは安易で男性的な発想ですね。