見えないからこそ 映画『百日紅~Miss HOKUSAI~』ネタバレなし感想+ネタバレレビュー
個人的お気に入り度:8/10
一言感想:原恵一監督らしさ、満開
あらすじ
江戸時代、葛飾北斎は浮世絵師として名を馳せ、その娘の娘のお栄(後の葛飾応為)も父ともに浮世絵を描き続けていた。
お栄には生まれつき目の見えない妹のお猶がおり、お猶は自身が親孝行できそうにもないこと、父の北斎に迷惑をかけているのではないかと気に病んでいたのだが・・・
『映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』『河童のクゥと夏休み』の原恵一監督最新作にして、故・杉浦日向子による漫画『百日紅』を原作とした作品です。
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原恵一監督は、今回の映画をきっかけに、杉浦日向子さんと『百日紅』がいまの人に知ってもらえることを望んでいたそうです。
実写映画『はじまりのみち』でも「木下恵介監督のことを知ってほしい」という想いを溢れさせまくっていましたし、原監督は映画を使って、自分が知っている素晴らしい作品を世の中に伝えることができるという、うらやましい方なのでしょう。
映画ファンの自分も、「◯◯という作品は本当に素晴らしいのに、みんなが知らないないなんてもったいないよ!」と思うことがたくさんありますから。たとえばこれとかこれとか。
本作は、原作の『百日紅』を知らずに観に行く方がほとんどだと思います。
そこで注意していただきたいのは、主人公である葛飾北斎やその娘の葛飾応為のリアルな浮世絵師の姿を映した作品ではないということです。
舞台となる江戸にはところどころに「妖怪」の影をちらつかせており(はっきりと妖怪が登場するわけではない)、どこかファンタジーめいた描写がたっぷりあります。
これは、「葛飾応為ってどんな人だったんだろう?」「浮世絵師の人生について丸ごと知りたい!」と思っている方にとっては、ちょっと期待ハズレに感じてしまうのかもしれません。
(葛飾北斎が幾度となく引越しをしていたことなど、史実を反映させた描写もあります)。
各エピソードはすっきりはっきりとしていなく、「この話の意味はどういうことなんだろう?」「このオチはどういうことを示しているんだろう?」と思わせます。
わかりやすいストレートな作品を求めている人にとっては、モヤっとしてしまうのかもしれません。
でも、自分はこの『百日紅』という作品が大好きです。
なぜなら、その「ちょっと不思議」な物語の数々、普段は知り得ない江戸の風景、人物描写がたまらなく魅力的であるからです。
映画ではその点をすべて拾い上げるばかりか、映画ならではの描写もしっかりプラスしています。
とくに目立つのは、(アニメなのに!)リアルな江戸の情景と、盲目の末娘・お猶のエピソードでしょう。
原作では、お猶はたった1話しか登場していないのですから。
素晴らしいのは、お猶の「目が見えない」がゆえの描写の数々です。
彼女が盲目であることは、言葉にせずとも十分にわかるように演出がなされています。
そして、アニメーションという表現を使って、目が見えない彼女の想像力を「見せる」ような演出がたっぷりあります。
観客の目の前には、美しいアニメーションの絵が広がっています。その中には、目が見えないお猶が「頭の中でそのように想像している」かのように感じるシーンがたくさんあるのです。
自分は、この『百日紅』がアニメーションという媒体でよみがえって本当によかった、原監督にこの映画を作ってもらって本当によかったと感じました。
アニメでしかできない表現と、原監督ならではの繊細な描写が組み合わさり、原作の魅力をもしっかりと表現している作品なのですから。
また、声を担当した俳優陣もすばらしかったですね。
お栄役の杏と葛飾北斎役の松重豊はまさにハマり役。さらに高良健吾、濱田岳、麻生久美子など、豪華すぎる配役。違和感を覚えた声はひとつとしてありませんでした。
また、矢島晶子と藤原啓治というクレヨンしんちゃんの親子役の声優がしれっと登場しているのも見逃せません。
本作の欠点は、原作が短編集ということもあり、劇場映画ならではの盛り上がりを期待すると少し物足りなく感じてしまうことです。
しかし、この弱点は作り手側も理解しているようで、前述のようなお猶のエピソードをふくまらせて展開にダイナミズムを作っています。
また、映画では原作のエピソードをうまく取捨選択して(主人公のお栄の話に絞って)います。
原作では、女好きの善次郎(後の渓斎英泉)を主人公にした話も多いのですが、原監督は(泣く泣く)カットして映画をタイトに仕上げたようです。
そのために、本作の上映時間はわずか1時間30分。手軽に観るにはもってこいの作品になっているのは、本作の長所でしょう。
もうひとつ賛否両論を呼びそうなのは、江戸という舞台であるのにギターをかき鳴らすようなBGMが使われていることでしょうか。
原監督は『カラフル』でも疾走するシーンでギターメインの楽曲を使っていましたし、登場人物の「込み上げてくる」感情を示すためには重要だったのでしょう。
椎名林檎による主題歌を含め、自分はこの音楽のミスマッチ(に思えること)も好きなのですが・・・このあたりは好き嫌いの問題ですね。
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もうひとつ気をつけておきたいのは、少しだけ性的な描写があること。親子で観に来るとギョッとしてしまうかもしれません。
まあ、葛飾北斎は鉄棒ぬらぬらというペンネームで春画(エロ絵)を描いていたことは有名ですし、性描写はG(全年齢)指定でまったく問題がないくらいの軽いものなんですけどね。
ホラーっぽい演出もあることですし、ターゲットは完全にオトナということを念頭において観に行きましょう。
これから映画を観る人には、ぜひ前述の「目の見えない」描写、そして「暗闇」の描写に注目してほしいです。
その暗闇は「盲目」がゆえの描写であり、登場人物の恐怖や孤独を感じるためのものでもあります。
原恵一監督作品では暗闇の描写が『カラフル』や『エスパー魔美 星空のダンシングドール』にもありましたが、本作『百日紅~Miss HOKUSAI~』の暗闇は原作からあったものです。
原監督はこの暗闇の描写が大好きだったそうで、それを無理なく映画に落とし込んでいる(しかも+αの描写も!)ことに感動しました。
『百日紅』というタイトルについても触れておきます。
サルスベリは梅雨明けとともにわっと咲き始め、その期間は道が薄紅色になるくらいに花びらを撒き散らします。
しかし、そこで見上げると・・・どこから花びらが落ちたかわからないくらいにびっしりと花が咲いているのだそうです。
この「わさわさと散り、もりもりと咲く」という状態が100日続くからこそ「百日紅」という名前になっているわけです。
その百日紅は、少しくらいの逆境にはめげず、図太く生きる北斎やお栄のことを示しているのでしょう。
お栄の言う「親父と娘で筆二本、箸四本さえありゃあどこに転んだって食っていくさ」なんてセリフは、その図太さを体現しています。
『百日紅~Miss HOKUSAI~』は原恵一監督のファンには絶対に映画館で観てほしいです。
アニメファンや映画ファンにとっては、シーンのひとつひとつから巧みな演出を感じることができる秀作になるでしょう。
できれば、映画の後でもいいので、原作も読んでみてください。
映画にはなかった、優れたエピソードがたっぷりあります(映画のエピソードは下巻に多く収録、細かい人物の描写は上巻に多く収録)。
読めば、きっとその不思議な世界に酔いしれ、杉浦日向子という作家を追いかけたくなることでしょう。
以下、結末も含めてネタバレです 鑑賞後にご覧ください↓
※まずは原作に収録されているエピソードから書いてみます。
〜「龍」(原作上巻収録)〜
お栄がタバコの灰をこぼして、北斎の龍の絵を台無しにしてしまう話です。
ていうか、お栄がもそのことを謝らず、北斎が何も言わないっていうのもすごいな(笑)。こういう「暗黙の了解」がある親子なんでしょうかね。
歌川国直は「龍にはコツがありやす、ただ降りてくるのを待つんでさ」とお栄にアドバイスをしていました。
そして江戸の夜は嵐のような天気になり、その中でお栄は「降りてきた」龍の絵を描いたようでした。
北斎は、龍なんて見間違いだと言っていた善次郎に「おめえはそういう了見だから絵が下手なんだよ」と言っていました。
北斎の言うとおり、ものごとを「想像する」ことが、絵を描くための才能なのかもしれません。
〜「離魂病」(原作下巻収録)〜
花魁(おいらん)の首が伸びる(ろくろ首)噂を聞いて、北斎らがそれを確かに行く話です。
実際に北斎は、花魁の首が伸びるのをしっかりと目にします。
花魁は「どこかに首が行ったらどうするつもりだ」と問われても、「そのときはそのときでござんしょう」とあまり気に留めていないようでした。
この花魁が何を考えていたのかは、はっきりとは原作でもわかりません。
おそらく、花魁はこの時代が浮世であると思っており、だから首が彷徨い始めたのではないでしょうか。
花魁は客に体を売って生活しないといけない、そのような日常に嫌気がさしていた、どこかに逃げたい・・・そうした想いが彷徨う首として現れたー
花魁は、「それはそれで(どこかに行ってしまっても)構わない」と思っていたのではないでしょうか。
それを裏付けるのが、北斎が花魁に語った「手がどこかに行ってしまう話(本当は人づてに聞いた怪談話)」です。
北斎は「まだまだ描きたらねえ」ということで、両腕に経を書いて数珠を巻き、立派な絵描きになったと言っていました。
北斎はこの世に未練がありましたが、花魁は未練なんかなく、ただいまの生活から抜け出したかったんでしょうね。
〜「色情」(原作下巻収録)〜
お栄が、初五郎(魚屋北渓)を男と意識して、男娼のところに向かう話です。
お栄はその男勝りの性格のためか男性経験がなく、いつもは下手な善次郎が枕絵(春画)では色気たっぷりの絵を描くこと、初五郎の肌のにおいに嫌悪感を覚えていたようでした。
彼女は、そうした色情を嫌う自分を変えるために、男娼を買いに行ったのでしょう。
そこでお栄は狩野探幽の山越阿弥陀のまがい物を見ます。
男娼は、大仏に街を潰された夢を見たと言い、お栄も自分が大仏に踏んづけられる夢を見ます。
これは「お前らの性的な悩みなんかちっぽけなんだよ!」と示すエピソードなのか?正直よくわかりません(笑)。
原作では男娼が声変わりもして、仕事を続けれなくことをぼやくシーンもあるので、やはり「大仏に踏まれる」というのは、「自分のスケールの小ささ」を表しているように思います。
〜「鬼」(原作上巻収録)〜
お栄の描いた地獄絵が、奥方に悪夢を見せてしまうという話です。
解決方法は、地獄絵の隅に菩薩(それを崇拝する鬼)を描いて「始末」をつけるということでした。
絵画(芸術)は、ひとつのものを目指して描くのではなく、どこかに(「救い」などの)別の要素を入れないといけないという教訓なのかもしれません。
※このエピソードは陰摩羅鬼の引用のようです。
最後に、善次郎が門の隅にツバメの巣を見つけたのは、屋敷に「生」が戻ってきたことを示しているのでしょう。
※ちなみに、映画の最後に善次郎たちが「ものすごく酒に強い遊女のところに行く」と言っています。
映画ではその話は描かれませんでしたが、原作下巻に収録されている「酔(すい)」で読むことができます。
〜盲目だから(映画オリジナル)〜
お猶は、自分が目が見えないこと、親孝行もできそうにないこと、父親である葛飾北斎に嫌われているのではないかと気に病んでいました。
だけど、お猶は姉のお栄から、いろいろなことを教えてもらいます。
北斎は弱虫だからお猶に会わないのであって、決して嫌われているわけではないこと。
両国橋では、そこに通る人々のこと、
隅田川では、船に乗り水の冷たさを教えてくれました。
そこで、隅田川はまるで葛飾北斎の代表作のひとつ「神奈川沖浪裏」のようになりました。
お猶が(目が見えなくとも)感じた迫力は、その絵のようなものだったのでしょう。
冬には、お猶は雪道で子どもと楽しそうに遊んでいました(原作下巻「山童」をアレンジした描写)。
お猶は目が見えなくとも、落ちてくる雪、地面の雪の感触をたっぷりと楽しんでいたようでした。
(ここでお栄は、耳が遠くなってゆっくりと動くお茶屋のおばあちゃんのことを気にしています。きっとお猶の姿を、おばあちゃんに重ねていたのでしょう)
お栄がお猶はおんぶして道を歩いていると、北斎とすれ違うというシーンがありました。
ここでお猶は「俺が父ちゃんのところに行ったら、父ちゃん驚いて迷惑してしまうかもしれねえ」と気にしています。
その言葉は当然、北斎も聞いています。
しかし、お栄はそのことをお猶には教えませんでした。
〜「野分」(原作下巻収録)〜
北斎はやっと病床に伏せているお猶に会いに来ます。
そこで北斎がお猶に触れたとき、周りは「暗闇」になりました。
これは、いままで「見えていた」ものが「見えなくなった」(お猶が「見えないこと」を感じた)シーンです。
お猶は、蚊帳の上にいたカマキリのことを気にしていました。
お栄はそのカマキリを外に逃し、お猶の「かわいい?」という質問に「かわいいよ」と返していました。
とてもカマキリの姿は、「かわいい」とは言えないものだったのですが・・・
お栄は、お猶が盲目だからでこその、やさしいウソをついていたのでしょう。
だけど、その嘘は目が見えている人からすれば、簡単に見破れてしまう(北斎には「おめえはウソが下手だなあ、そんなんだから男のひとりも騙さねえ」と言われるくらい)ものです。
裏を返せば、お栄はウソが下手なのに、妹のために無理をしてやさしいウソをついていたとも取れます。
むしろ、悲しい出来事でも受け入れようとしていたのはお猶のほうです。
彼女は父に嫌われることも、死んでしまうことでさえも、「それでいい」と思っていたのではないでしょうか。
なにせ、お猶は賽の河原で石を延々と積み上げなければならないことも「そう決まっているのだから、しょうがねえ」と言っていたのですから。
だけど、お栄はそんなことを望みません。北斎にも「医者の薬が効いた」とウソをつきます。
お栄の母も、放し鳥売りを信じ、鳥たちが自由に生きていけるように望んでいました。
しかし・・・その想いも届かず、お猶は亡くなってしまいます。
〜金魚の絵(映画オリジナル)〜
お栄は、お猶が「金魚鉢をじっと見えている」絵を最後に描きました。
お猶は目が見えないはずなのに、金魚をじっと見ている・・・
これは、お猶が実際にしていた「事実」であるのですが、お栄の「目が見えていたら」という願望にも思えました。
お栄は、自分が得意とする絵を使って、お猶にそのことを伝えたかったのかもしれません(もちろん、お猶にはその絵は見えないのですが)。
最後にお栄は、星空に向かって「そっちの暮らしはどうだ?こっちはどうってことねえ」と言っています。
彼女が死んだという事実は悲しいものです。
しかし、お猶自身は姉にここまで想われて、幸せであったのでしょう。
〜ラストカット〜
本作でもうひとつ賛否を呼ぶであろうことは、ラストカットで現代の隅田川(実写)を映し出したことです。
これに「急に現実に戻されてしまった」とがっかりしてしまう人がいるのも当然です(ラストカットではありませんが、似たような演出は『カラフル』にもありました)。
これは、原監督が「現実との対比」を映したかったがゆえの描写だと思います。
今の世の中と、お栄たちの暮らしていた江戸(浮世)はこれほどまでに違う。
その登場人物の息吹を、いまの世の中と比べてほしい・・・
そう考えると、お栄たちの暮らしや世界が、より特別な、愛おしいものに思えるのではないでしょうか。
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川島監督は品川宿を疾走する佐平次のラストカットを、現代の品川を使って撮ろうとして、諸事情で断念したということです。
時代劇に現代の風景を入れる、というのはある種の禁じ手のように扱われてきた感がありますが、今回原監督がそれをあえて取り入れてきた、というのは、正直「らしいな」と思いました。
川島監督はラストシーンを、現代の品川を使って撮ろうとして諸事情で断念ました
時代劇に現代の風景を入れる、というのはある種の禁じ手のように扱われてきた感がありますが、今回原監督がそれをあえて取り入れてきた、というのは、正直「らしいな」と思いました。
ちょっと質は落ちてもTVシリーズでやっても良いですよこれ!
>目が見えない彼女の想像力を「見せる」ような演出がたっぷりあります。
「伏 鉄砲娘の捕物帳」を思い出しました。本作にも名前だけ登場する「滝沢馬琴」を演じた桂歌丸師匠の演技もあって唸らされたのを思い出します。
アニメという表現の可能性を見たい方は、本作同様是非!
>また、声を担当した俳優陣もすばらしかったですね。
殆どプロ声優でないのに、この演技力・・・!素晴らしいキャスティングでした。
何度も言いますが、アニメオタクはプロ声優しか使うな!なんて言ってる訳ではないのです。
>原作では、女好きの善次郎(後の渓斎英泉)を主人公にした話
女好きだから女性を魅力的に描ける・・・という話に納得しつつ、前にあるエロ漫画家さんが言っていた「エロ漫画家はエロ漫画家である内は童貞でなくてはダメだ!女を知るとリアリティ重視で魅力的に描けなくなる!」という自論を思い出しました。
>少しだけ性的な描写があること。
自分はレイトショーで観ましたけど、男娼がお栄さんにチュッチュするシーンはちょっとドキっとしました。
>お栄がもそのことを謝らず、北斎が何も言わないっていうのもすごいな(笑)。こういう「暗黙の了解」がある親子なんでしょうかね。
「ごめん」の一言も無く娘が反省している事が解る父と、そんな自分を解っている父を理解している娘。
お猶ちゃんとへの接し方とか、北斎先生な不器用な父親ぶりをセリフでなく雰囲気で表現しているのに脱帽ものです!
ああ、彼らの話をアニメでもっと観たくて仕方ない!とりあえず職場宣伝しまくってます。
(普段あまり、一般の方にお勧め出来ない作品ばかり見てますので・・・)
本当に関係なくて申し訳ないんですが…同じ時代劇ということでですね…
駆込み女と駆出し男はご覧になる予定はありませんでしょうか?
私のオチの解釈が他の方とは異なっていまして少し腑に落ちなくてですね、カゲヒナタさんの感想をお聞きできたら嬉しいのですが…
> 私のオチの解釈が他の方とは異なっていまして少し腑に落ちなくてですね、カゲヒナタさんの感想をお聞きできたら嬉しいのですが…
ぜんぜん返信できていなくてごめんなさい。仕事が忙しくてあれなので、ごめんなさい鑑賞できていません。
ひょっとしたら、DVDになったときにでも・・・